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月刊メディカルサロン「診断」

統計データに対する大人の対応?掲載日2019年1月28日
月刊メディカルサロン3月号

賃金や労働時間に関する厚労省の調査が、不適切に行われていたという問題が取りざたされています。一言でいうと、厚労省の統計データのとり方がずさんであるという問題です。テレビをつけると、マスコミがそれを悪事として指摘しています。

われわれ日本人は、「日本人は正確で緻密を好むから、日本人が作る統計データは正確なもの」 と思い込んでいます。
お隣の中国に対しては、日ごろから「中国が作る統計データは作為的で信用できない」と思っています。
30~40年前、日本の子供の数学力は世界で1位、2位を競っていました。その記憶があるので、「日本人は数字に強い」と思い込んでいるのが背景にあるのでしょう(現在、子供の数学力は世界で5位前後だそうですが・・・) 。
その辺に関して、私は思いを巡らせることになります。

たとえば、「マジンドール」に関して

厚労省管轄下の医薬品に関するデータに関して述べてみましょう。
私が自分自身の経験で正確に知っている、ある医薬品の情報があります。それは、食欲抑制剤マジンドールに関する情報です。私自身は3000人以上に、このマジンドールを使用したダイエット指導の経験を持っています。そして、実際に診療を受けた人は知っているように、私は患者の話を大量にカルテに書き込みます。患者から聞いた話のエッセンスを書き込むのでなく、患者の話そのものを書き込みます。そんな経験を3000人以上に行っていますので、その経験数(症例数)は、おそらく日本一であり、そんなわけで、マジンドールの副作用のことに関しては、誰よりも精密に知っています。
副作用としての口渇感の頻度は、薬に有効性を示した人のほぼ全員に必発で、70%以上です。私の診療では、間違いなくその頻度です。実際にマジンドールを内服した人は、「喉が渇く」というのを感じていたはずです。この原稿を読んでいる人にも、マジンドールの使用体験者は大勢いますが、「確かに喉が渇いた」とほぼ皆が思っています。ほぼ必ず喉が渇き、そして過半数の人が便秘になります。くわ茶と飲用すると便秘の頻度は軽減します。

数値の裏に企みあり

一方、製薬会社発表のデータによると、口渇感の頻度は、わずか7.1%にすぎず、便秘の頻度は、6.4%に過ぎないとされています。
副作用頻度の調査においては、製薬会社の担当員が「お抱えにしている」と言っていい医師に依頼し、お互いの以心伝心の中で、患者からの聞き取りに手心を加え、副作用頻度が少なくなるような統計データづくりを行っているのです。だから、決して正確なデータにはなりません。

患者の皆さんは、「えっ」と驚くかもしれませんが、医師であればそんな背景を当然のこととして、皆が知っています。製薬会社の統計データは、過小や過大が当たり前と認識されており、はなからそのデータを信じ込む医師はいません。「そういう発表にしているわけね」と、スルー気分の「大人の対応」をしているのです。
それが統計データというものです。聴取項目の表現方法の選定、実際に調査する人の選定、調査される人の選定、調査の聴き取り手法の選定で、調査結果を自由自在に変化させることができるのが統計データというものなのです。

公平無私、冷静冷徹にデータをとって、そのデータを元に何かを考えるのではありません。まず何かの考え、狙い、思惑があり、それを支援するためのデータづくりを念頭に置き、調査を実施する人と母集団を選び、支援するための表現、項目を工夫し、支援するための聞き取り方法を考えます。そして集まったデータを、支援する目的に合わせて取捨選択して数字を揃えていくのです。

受け継がれる悪しき「体質」

戦後すぐの頃、日本のお役所が「食料が欠乏している。このままでは数十万人が餓死する」というデータを出し、それをGHQに示したところ、マッカーサーが慌てて米国から緊急的に大量の食料を取り寄せて手配したことがありました。
しかし、もともと餓死の気配など存在せず、おかしいと思ったマッカーサーは、吉田茂首相を呼び出して詰問したそうです。
「おたくの国のデータ。真っ赤なウソだ。いい加減過ぎる。日本の役所は、いったいどんなつもりで統計データを作っているのだ?」
それに対して、当時の吉田茂首相は下記のように答えたそうです。
「我が国の統計データが正確なら、アメリカさん相手に戦争をしたりしませんよ」
笑っていいのかどうかよくわからない話ですが、この件は次のことを意味しています。
まず、米国に食糧支援させたいという目的があります。そしてその目的を実現させるための統計データづくりを行っています。そして、吉田元首相は、日本の風習としてそんなことは当たり前で、いまさらそんなことを悪事として指摘するのではなく、大人の対応をしなさい、と述べたのです。
そして、そんな風習がもはや伝統として、日本の役所には、いや日本国全体に脈々と受け継がれているのです。
日本においては、予算ゲット、法案通過などの何かの目的が前提にあり、その目的を満たすように作為的にデータづくりをしています。役人の間では、それが当たり前であって、もはや悪事としての認識さえありません。それが日本の伝統であることを我々は深く認識して、統計データ、ひいては政治と接するようにしなければいけないのです。

マスコミも立派な共犯

ところで、それを糾弾しているマスコミも、そんなことを指摘できる立場ではありません。マスコミの調査が正確なら、世論調査の結果が皆同じになるはずです。しかし、同じ内容の調査に関して、右寄りの新聞社は右寄りの人が喜ぶようなデータを、左寄りの新聞社は左寄りの人が喜ぶようなデータを発表しています。
テレビ局も同じです。メディア各社で調査結果が異なるのは、自分たちの思惑の方向に向かって調査を実施しているからにほかなりません。
皆、「あそこの新聞社は「こういう部分に対してわざと不正確に調査するから、その分は割り引いて考えなければいけない」など、当たり前のように考えています。
人々の心を動かしていくマスコミが最も正確な調査をしなければいけないのに、そのマスコミがこの「体たらく」ですから、まあ、日本という国はそういうものなのでしょう。厚労省を糾弾するテレビの評論家たちも、マスコミに食わせてもらっていますので、マスコミ自身の調査のいい加減さを指摘することはありません。
いやいや、統計データによるとトランプ大統領の誕生はあり得ませんでしたから、日本に限らず世界中が皆、その傾向を持っていると思っていいのです。

データを疑う力を持つ

本件に関しては、全国民に「統計データというのは、もともとそういうものなのだよ。調査主体者の意図を事前に読み切って、その上で、割り引き、あるいは、割り増ししながら考えていこうね」という注意を喚起し、統計データと言われるものの「真の本質」を教えることが、最も未来のためのように思います。もちろん、正確なデータを作成することを怠ってもよい、と言っているわけではありません。

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