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月刊メディカルサロン「診断」

平成自分記(前半)掲載日2019年5月1日
月刊メディカルサロン6月号

令和の時代を迎えるにあたって、平成の自分を整理しておきたい、と思うものではないでしょうか。ちょっとやってみました。

平成元年 医師生活のスタート

平成が始まった時、私は医師国家試験の勉強をしていました。そして、その年の春、研修医として就業しました。
研修医2年間は、言わずと知れた重労働です。当時、医師には労働者としての権利は認められていませんでした。「完全主治医制」の名のもと、「24時間いつでも駆け付けられる」は絶対条件で、朝は7時から夜は11時まで(通称セブンイレブン)は病院にいる日々。ポケベルによる深夜の呼び出し、散髪中の呼び出し、食事中の呼び出しなどは、日常茶飯事でした。当然、日曜、祝祭日はありません。
なぜそんな生活に耐えられたのでしょうか?今、思えば、2つの要因がありました。一つは、社会人になって最初の頃でしたので、「労働者の権利」というものを知らなかったからです。もう一つは、「未来の自分を作るために学ばせてもらっている」という思いがあったからです。
常識外れの生活を強いられましたが、「辛かった」「きつかった」などの思い出は全く残っていません。ただただ、「患者を救うという使命を果たしている喜びと、自己の将来の夢と希望に満ちて楽しかった」という思い出だけです。

平成4年 プライベートドクターシステム創設

内科外来を担当することを命じられました。医師になって4年目の大学病院内科外来担当は、異例中の異例です。
その職務を実直にこなしているつもりの中、私は日に日に白けていきました。「こんなことなら誰でもできる。優秀な先輩、同輩、後輩がたくさんいる。こんな医療はその人たちに任せておけばよい。私は、誰も知らない、誰もできない未知の世界に突き進みたい」という思いが募る一方でした。

そんな時に、積極的予防医療の存在を知り、それこそ私が求めていたものであると直感し、「プライベートドクターシステム」を創設しました。
当時は、「誰もやっていないことがそこにある。面白そうだからやってみよう」という程度の気分でした。大学院生という立場、大学病院のスタッフであるという立場から、ひっそりと始めたにすぎませんでした。
こっそり、ひっそりと始めたプライベートドクターシステムですから、辞めることになるかもなあ、と思っていたのは事実です。しかし、時間とともに傾倒していきました。たまたま招聘されて講師を務めたセミナーを基に、次々と講師の依頼が来たのです。講師として、医療社会のこと、健康管理学のことを啓蒙する喜びに浸りました。
同時に、プライベートドクターシステムの会員が増えていきました。その一方で、特に、健康保険の診療現場の弱点でもあるダイエット指導に取り組み、その診療体系を確立していきました。

平成7年 四谷メディカルサロン本格始動

私は岐路に立ちました。プライベートドクターシステムを続けるべきか、本来の研究者の道に戻るべきか。そんな矢先、かつて医学界の領主といわれた武見太郎氏が残した言葉の一つにふれました。
「慶応に貢献したいなら、外に出て活躍しなさい。外に出て活躍して得たものを慶応に持ち帰る。それが、慶應義塾への最大の貢献の道だ」
大義名分を得て、悩みは吹き飛びました。

平成7年、四谷4丁目の交差点の角に「四谷メディカルサロン」の看板を大きく掲げた時、私は恐怖に襲われました。内科領域の医療において、健康保険を捨てて、本当にやっていけるのだろうか?勢いに任せてとんでもないことを始めてしまったのではなかろうか?
看板を出した当初、受付には「風邪ひいた」「お腹が痛い」などの患者が次々に訪れました。健康保険診療を行っているクリニックが新しくできたと、勘違いしているのです。「健康保険は扱っていません」と話すと、当たり前ですが必ず引き返していきます。健康保険の診療所だったら、経営的には楽だったのになあ、と何度も思ったものです。
「プライベートドクターシステムに入会したいのですが」という来院者なんて、いるはずがありません。セミナー、講演などで自ら外で活動したときに、わずかに一人の入会者を得られるくらいです。あとは、知人から話を聞いたというダイエット指導の受診希望者が来院するくらいです。恐怖心は広がる一方でした。

プライドを捨てテレアポ活動

「このままではやっていけない」と思うまで4~5ヶ月もかかりませんでした。以前は、「慶応病院の風本先生」という看板、そして、家賃がほとんどかからないマンションの一室、さらに、慶応病院との兼任時代は、「外の病院に出かけるパート先」があったから、運営できていたのです。

絶体絶命の縁で恐怖におびえる中、自然衰退するくらいならすべてを捨てて、自暴自棄の作戦行動に出てやると覚悟を決めました。「すべてを捨てる」というのは、プライドを捨てるということです。背水の陣になって初めてプライドを捨てられるのです。
私は自ら電話帳(タウンページ)をめくり、テレアポ活動を始めました。「間に合っています」「不要です」とガチャ切りされる屈辱に耐えながら、電話をかけ続けました。
当時、私の自由診療の分野で一般の人々に通用するのは、ダイエット指導だけでした。そこで、同じようにダイエットをサービスメニューにしているエステサロンに無差別的に電話をかけていったのです。最初は、その架電の目的もはっきりとしたものではありませんでした。とにかく、「先方が困っていれば何とかなるかもしれない」という盲目的なものでした。今思えば、よくあんなことができたなあと思いますが、何せ当時の私は絶壁状態です。なんでもできます。

「頼朝計画」の成功

そして、私はある手ごたえをつかみました。「平成5年、6年のインドエステの大流行が下火になった今、エステティック業界は、集まった顧客を持て余し、提供するダイエット系のサービスメニューに困っている」と。
私はふと、源頼朝を思い出しました。石橋山の合戦に敗れた頼朝が、源氏の嫡流の肩書を背負いながら、房総半島を食うや食わずの屈辱の中をさまよい、その絶壁状態を経て、反平氏、反宮廷政治の旗のもと、関東の武士団を糾合し、一大勢力を作り上げたことを思い起こしたのです。
私には、医師という肩書、慶応病院で内科外来を担当したという経歴がありました。「源氏の嫡流」という肩書だけを活かした頼朝と同様に、その経歴を活かして、エステティックサロンを糾合できないだろうか。これを「頼朝計画」と名付けました。そして、恥と外聞を捨て、身に着けた架電テクニックをフルに使い、見事に計画を成功させました。源頼朝の人生を参考にさせてもらったのです。というより、まったく同じ作戦を展開しました。
私は戦乱期の歴史小説は大好きで、中学時代から読みふけっていました。三国志、信長、秀吉、家康、項羽と劉邦、そして史記の7つは基本中の基本で、登場人物のほぼすべてを語ることができますが、その時に思い起こしたのは、意外なことに、それらではなく源頼朝でした。頼朝の旗上げからの一連を模倣すればいいだけでしたので、作戦計画は立てやすく、先の先の展開まで予想することができました。歴史の本は読んでおくべきです。

平成8・9年 理想実現のための資金力獲得

そんなわけで、前述の活動により200店以上のエステティックサロンと提携し、未来にわたって二度と困らないような資金力を獲得することができました。新しいことに取り組む時、改革的なことに取り組む時、資金は何と有難いものなのだろうかということを実感しました。理想を実現するための資金がないときの自分は、言葉でカッコをつけていただけかもしれないと思えるほどでした。
その頃、もう一つ気づきました。資金を得れば得るほど、自分の生活は質素倹約になります。得た資金は天からの預かり物のような気がして、私利私欲のために使うことができなくなるのです。
大量の資金を得る前は、人を惹きつけるために豪放にお金を使って遊んでいる態を作っていたこともありましたが、資金を得てしまうとそのような必要もなくなります。以後、健康管理学の研究に没頭し、質素倹約を絵にかいたような私の生活が続きます。

平成10・11年 健康ブームの火付け役に

この頃は、メディア活動を行っていました。健康管理とは、「90歳を超えても(寿命管理)、頭脳明晰で自分の足でどこにでもいけて(体調管理)、見た目の姿は50歳(容姿管理)を実現するために取り組む諸行為のことである」という定義を閃いてからは、学問化を急速に進めることができました。
健康管理のあらゆる事象は、寿命管理、体調管理、容姿管理の枠の中に収めることができるのです。この健康管理学を世に広めたいという一心で、新聞連載、健康記事の寄稿だけでなく、テレビやラジオ番組への出演も精力的にこなしました。健康ブームの火付け役の一人になったと思っています。

平成12年以降 著書を連発

書籍を、次々と執筆しました。きっかけは、『お医者さんが考えた朝だけダイエット』(三笠書房)です。公称で60万部突破、実数で45万部売れました。以後、ダイエットや体の内側からのスキンケアなど、容姿管理系の本がよく売れました。執筆するごとに10万部以上売れたものです。読者にはひたすら感謝する次第です。

派生医療の確立

一方で私は、「プラセンタ医療」「成長ホルモン医療」を確立していました。いわゆる容姿、体力、意欲の回復系の医療です。日本中から診療の希望者が集まってきました。当時は、日本全体で容姿、体力、意欲の回復医学が芽生えたばかりでしたから、時代の先を走っていました。
私は、病気の治療を行っているのではありません。病気の治療は他の医師に任せて、病気でない人に内科系の医療サービスを提供しています。病気でもないのに、なぜこんなに多くの人が集まってくるのでしょうか?

人々に夢、勇気、希望、誇りを

診療を行いながら、私は徐々にあることに目覚め始めていました。人々は、直接に医療行為を求めているのではない。医療を介して「得られるもの」を求めている。その「得られるもの」とは、勇気であり、夢であり、希望である。そしてその結果、楽しい生活、生きてきてよかったと思える喜び、誇れる自分を求めているのです。
つまり、医療、医学というものは、人々に夢、勇気、希望、誇りを与えるための手段に過ぎない。人々は医療そのものを求めているのではなく、その医療により得られる意欲、勇気、希望、尊厳を求めているのである。「人々が望んでいる楽しい生活をサポートするために、医療、医学は存在しているにすぎない」のです。
文章にしてしまえば当たり前のことのように思えます。しかし、今の日本の医師で上記を悟っている医師は皆無です。どの医師も、医療、医学が中心であると思っています。医療、医学の先に人が存在していると思っています。
「そんなことは医学にあわない」と叫んで、患者の言葉を平気で否定します。そして、「患者本位の医療」など幼稚な言葉を口にしています。悟ってしまえば、「患者本位」が失礼な言葉であることに気づきます。「自分(医師)と患者が一体化した医療」と語れば、多少は本質に近づきます。
このような話は、理解できる人だけが理解してくれればいいです。見えないことを理解させる難しさはよく知っていますので。

四谷から日本全国へ

さて、四谷のクリニックに全国から大勢の人が集まってきます。日本中に医療機関があるのに、私のクリニック以外では、その大勢の人の望みを満たすことができないのです。この分野に関して、日本全体が無医村になってしまったような状態です。国家、政府は、根本的にそのような事態を想定していません。離島、僻地の問題はありますが、日本中に医療機関が存在するものと思っています。
「遠方からお越しいただくのは申し訳ない」という思いが高まりました。そこで、こちらから出向いて、日本中にクリニックをつくりはじめました。当時は、健康管理指導のプライベートドクターシステムを表看板に、プラセンタ注射と成長ホルモンを使った医療(容姿、体力、意欲の回復、子供の背を伸ばす医療)、食欲抑制剤を使ったダイエット指導の医療を裏看板にして、全国に乗り出していきました。

おわりに

当時、プラセンタ診療、成長ホルモン診療に対して、多くの医師は「まやかしだ」「にせものだ」「効くはずがない」と叫んで否定していました。しかし、それらが多くの患者を集め、しかも自分たちの地元にどんどん進出してくるのです。面白いはずがありません。(今はどの医師も、プラセンタ、成長ホルモンの有効性を認め、不妊治療などにも用いられています。そうなるまで15年以上かかりました)。
私が展開している医療は、病気の治療を行う従来の医療(健康保険診療)とは完全に一線を画すものですから、本来的には従来医療とは他者同士として並立可能なものです。
しかし、自分たちの権益を侵されるのではないかと錯覚する人たちが現れてしまいます。或いは、ただの妬み根性も現れます。多店舗のクリニックは、進歩したIT技術の一環としてのクラウドサービスを利用していますので、その来院者は一元管理されています。そんなことを理解できず想定外なことが広まっていくことに怯える国家権力集団がいます。

それらとの戦いが展開され、それを乗り越える過程で、新しい時代を睨むようになるのが、平成18年以後の平成自分記の後半となります(後半は、いつの日か執筆しようと思っています)。

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