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月刊メディカルサロン「診断」

チームリーダー論掲載日2020年8月29日
月刊メディカルサロン10月号

たった一人で一つの任務に取り組み、それが軌道に乗り、上手く展開するようになりました。「あれもやらなければいけない」「これもやらなければいけない」がだんだん増えてきます。任務そのものは大規模ではなく、一人でやり切ろうと思えば一人でできてしまいます。そんな矢先に、トップから指示が出ました。「部下を一人与える」と。上司になるのです。
そんのような時、心の中には、次の二つのどちらかが浮かびます。
「おお、部下ができるのか、それはラッキーだ。これで俺は楽になる」
「えっ、部下ができるの。自分一人でも大変なのに、この上部下の面倒まで見なければいけないのか。大変なことになった」
あなたが上司であるなら、どちらが思い浮かぶでしょうか? あなたが部下であるなら、どちらの上司につきたいでしょうか。
上司と部下で二人のチームができます。上司の思惑により、上記の二つのパターンができあがります。上司がどちらの思いを描いたチームが、優れたチームになるでしょうか。

リーダー、どうあるべきか

これを突き詰めていくと、「リーダーはどうあるべきか」という、いわゆる、「リーダー論」へとたどり着きます。
私は過去に、日本中にクリニック事業を包含するメディカルサロンの店舗を作ったことがあります。つまり、多店舗展開をしたことがあります。
一つの店舗は数人のスタッフで成り立ち、その数人のスタッフにリーダーが一人存在します。リーダーの資質次第で、その店舗が、優れた効率性を発揮するか、そうでないかが決まることを目の当たりにしてきましたので、このリーダー論には、強い関心を持つことになります。

リーダー論は、「君主、どうあるべきか」とは異なります。また、「大軍を率いる将軍、どうあるべきか」とも異なります。事業戦略や社会正義性、資金計画、統治方針などを考え合わせる「参謀本部、どうあるべきか」とも異なります。単純に、ある任務を遂行し、目的を達成するための3~7人のチームのリーダーがどうあるべきか、という話です。どんな人が立派なリーダーとして君臨できるのでしょうか。私なりの回答を述べてみますと、下記の5条に集約されます。

第1条 嗜(たしな)みの一つとして、「業務の教え方を工夫」していること

リーダーになついていない部下を酷使したり、罰したりすると、その部下は服従しなくなります。したがって、最初の課題は、どうやって部下をなつかせるか、ということになります。
この最初の課題の解決は、「業務を教える」という過程でなつかせる以外に方法はありません。それも、教わっている部下が感心するような工夫された教え方をするのです。すると、その部下はリーダーを信頼し、なつきます。チーム内のどんなに細かい最前線の手業務でも、リーダーは自ら上手に教えられなければいけないのです。だからチームのリーダーは、細かい業務の隅々まで、日頃から研究していなければいけません。
「私はリーダーなのだから、細かいことはわからなくていいのだ」と錯覚している人がいます。その者は、部下をなつかせることができず、信頼されることはありません。錯覚リーダーは、「部下を食事に連れて行って奢ってあげればなつくだろう」と思うことがあります。そんなことをすれば軽くみられるだけで、決してなつくことはありません。錯覚に錯覚を重ねるだけです。
余談ですが、なついたら、凡ミスや不心得事象に対して、勇気をもって罰を与えられる体制をつくらなければいけません。罰を与えることができなければ、わがまま息子、わがまま娘を養っているようなチームになってしまいます。

第2条 本能の一つとして、「世話を焼いてあげる」のが好きなこと

5人の人員が1つの部屋で仕事しています。その部屋の掃除をしたり、備品を揃えたりという職場環境の整備は誰が行うべきなのでしょうか。
「そんなことはリーダーの仕事ではない。部下に命じて行わせることだ」と思うのは大きな錯覚です。リーダーは、そのチームの全体任務に対して、一人一人の人員に分割した任務を与え、その任務の遂行に集中力と責任感を持たせなければいけません。任務の遂行に集中させるために、あらゆるお世話をしてあげなければいけないのです。
職場環境を整えるのは、そのお世話の一つです。世話を焼いてあげることにより、感謝を得て、その感謝をその者の仕事への集中力に転嫁させるのと同時に忠誠心を高めていくことが、チーム全体の最大効率性の実現に直結するのです。
孫子の兵法に述べられている「卒を見ること嬰児の如し」とは、このことを言うのです。

第3条 勇気の一環として、「自分の責任です」と言えること

不覚の出来事が発生することがあります。不覚の出来事の前提には、「察知できなかった異変」が存在しています。
チームとしてトラブルが発生したときは、「察知できなかったこと」に対する責任として、リーダーは対外的には、「すべて私の責任です」と言えなければいけません。外に向かって、「あれは俺の責任ではない。誰誰が勝手にこんなことをしたから云々」などの言い訳は見苦しいだけです。
チーム内では原因追及などを進めますが、対外的に「私の責任です」と言えない見栄っ張り人間、臆病人間は、決してリーダーになってはいけないのです。
日頃は、「私は自由意志を重んじる放任主義だ。責任は私がとるから思う存分仕事せよ」と言う者は、いざとなったら「私の責任ではない」と言い張ります。不覚の出来事が起こらないように見張るのが、面倒くさいだけなのです。

第4条 努力の一環として、「部下たちと一体化」しようとすること

忙しくなり、苦労が増えるほど、チームの皆が意欲を高めていくというチームは強いです。チーム内のたった一人でも、「苦労が増えれば損だ」と思う者がいると、そのチームは最大効率性を発揮できず、弱いチームになります。「忙しくなれば、忙しくなるほど、皆が喜び、強くなる」というチームを作れるかどうかは、まさにリーダーの日頃の努力です。
「上下、心を一つにする」「上下、欲を同じくする」などの組織内システムを作成し、巧みに導入できているかがキーで、リーダーの腕の見せ所です。

第5条 責任感の一環として、「監視し続けて、異変を察知できる」こと

リーダーが不在中には、必ず非効率性が発生します。「非効率性は発生していない」と思うのは単なる希望的な願望に過ぎません。だから、部下をどんなに信用していても、リーダーは常に監視していなければいけないのです。
特に、一日の皆の最後をよく観察するのです。責任感がある者は必ずそうします。責任感の乏しいものはそうはしません。
そして、異変を察知しなければいけません。この異変の察知能力は、学習により高めることはできますが、究極的なところは、先天的才能のように思えます。
「では、私はこれで帰ります」と言って、先にいなくなってしまうリーダーの元では、非効率性が生まれ、そのうち必ず異変が発生します。
そのようにして出来上がったチームを集めた組織の上に、将軍、参謀本部、君主が存在するのが、組織の編成です。

リームリーダーをできないものが、参謀本部に存在することはあります。しかし、前述した理論は知っておかなければいけません。
将軍は、自らもチームリーダーも心得をあたり前のように実践できる者でなければいけません。

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