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月刊メディカルサロン「診断」

美学と格差、教育掲載日2021年5月31日
月刊メディカルサロン7月号

中国春秋時代の斉の宰相として名声を得ていた田文(でんぶん、=孟嘗君)の下には、一能に秀でた者3000人が食客として集まっていました。しかし、斉王は田文の名声を妬み、そして恐れ、宰相の地位を剥奪しました。地位を失った田文から、食客3000人は散っていきました。その不義理に怒る田文に、側近の一人が、次のように語りました。
「食客たちは、自分の見識や技能を活かしたいために、あなたのもとに集まっていたのです。それを活かせなくなったから去って行ったにすぎません。朝の市場を見てください。朝市が立つと人が集まってきます。求める物があるから集まるのです。昼前には、売る者がなくなって朝市は終了します。すると人は去っていきます。あなたはその様子を見て、去った人に対して不義理と言いますか。言えないはずで、今回、人が去ったのはそれと同じです。あなたが、宰相の地位に復活したら、その者達はまた集まってきます。その際に、拒んではいけません」
この話には、私流のアレンジが少し入っていますが、私は「朝市の法則」と名づけて、心の中で重宝しています。
しかし、過去の歴史を追うと、人の世界には、その法則に反する思想が行き届いています。「食べ物や金に見向かないで、信義を遂行せよ」「主君と決めたなら、その主君のために尽くすのは当然である」「より多い報酬で誘われても、自分を育ててくれた主君(会社)から去ってはいけない」「お国のために特攻して命を散らすのが当然である」などです。それらは、その時代の「美学」といわれます。
「お金で人をつったりはしない。国家的利得、大義名分だけで説得してやる」なども美学であれば、その正反対の「賄賂こそ決定打だ」という美学もあるでしょう。インドネシアに新幹線を売るときの日本と中国に、その美学の差を見たように思います。
教育、学習がなければ、人も魚や動物と同じで、食べ物を得るための活動のみになってしまいます。
教育が行き届いていない時代は、「食べ物があるところに自動的に集まる」が一般民衆の常識だったのだと思います。そんな中では、求める物があるところに無条件的に集まる人を「無教養」と位置付け、人間らしい美学を身につけているのを「教養がある」と言っていたように思います。人間らしい美学に関しては、中国の春秋時代に盛んに論じられたようで、孔子、孟子らはその代表格です。
日本の戦国時代では、教養あるものと無教養な者に分かれていたのだろうと思います。無教養な者は、「欲しいものがあるところに集まるだけ」と思われていたに違いありません。後の豊臣秀吉も、織田信長と出会ったときは、そのような「無教養な群の一人」と思われ、社会の上層部には相手にされない立場だったのだと思います。見出した織田信長は凄いのです。

一方、美学があるから、人の世界には納得できないことがつきまといます。
2000年のシドニーオリンピックの無差別級決勝で、篠原信一選手が負けた戦いは疑惑の判定でした。誰が見ても、「内股すかし」で篠原選手の一本勝ちだったはずです。しかし、判定は相手選手の「有効」となり、篠原選手は敗れました。試合後に、篠原選手は言いました。「俺が弱かった。だから負けた」と。このように語ることは、一つの美学です。審判の誤審であっても、審判が相手に軍配を挙げたからには、負けと認め、自分の修練が足りなかったと思う。まさに日本流美学です。一方、相手の選手は言いました。「ほら、篠原選手もそう言っているだろう。俺の勝ちは間違いない」と。そのように語った相手選手を責めていいのでしょうか。
美学は、自分の内側に存在するものです。それを他人に押し付けてはいけません。人数分の美学があることを悟り、その美学を認めて、自分の美学に合うか合わないか、自分の活動目的に適合するかどうか、だけを考えればいいのです。
この世の中は、美学的に合わない者同士が集まっているのだ、という認識も必要です。美学的に合わない者同士をたくさん集めて、その多勢を統制する手法論などは、「孫子の兵法」に述べられています。香港に対する姿勢を見る限り、今の中国は、孫子の兵法の応用版的国家になっています。

美学は、一面で信条と言われます。信条の自由は憲法で保障されています。しかし、その信条の自由を侵している法律がたくさん存在します。
美学的に合わない者たちが人間集団を作れば、自分の美学を他者に押し付ける過程で、パワハラを始め、様々な人間関係トラブルが発生します。しかし、今の労働関連諸法規は、美学を重視した人間集団作りを困難にしています。
人は活動している中で財産を蓄えます。財産を蓄えるにあたって、貢献してくれた人がその継承の権利を持っていると考えるのが自然です。「生み出された財産は、職場でその人を支えてくれた人のおかげであり、その者達が財産を受け取る権利を持っているのだ」という信条、美学を持っていても、法律はそれに大きな制約をかけています。
まあ、美学というのは、ある意味では、面倒くさいものです。

「怠け者」と言われる人がいたとします。その者は、「怠けても構わないはずだ」「怠け者と思われても構わない」という美学を持っているのです。「怠けたい」「楽をしたい」という本能は皆が持っています。しかし、「怠ける」ことに対して、その人の中で醸成された美学が、その先のその人の行動体系を作るのです。
「部下に責任を押し付けても、自分を守る。それは当然のことだ」という美学を持つ人もいますし、「部下にミスがあっても、自分の責任とする。それは当然だ」という美学もあります。逆に、「上の人を守るために、自分が犠牲になる姿が美しい」という美学もあります。その辺は、一部の政治家とその秘書に尋ねたくなります。
「おねだりして、うまくいけばラッキー」という美学もあれば、「人には与え続ける。与えられるのは好まない」という美学もあります。
「こっそりと悪いことをしながらも、ばれなかった時の快感が大切だ」という美学もあれば、「人が見ていようが見ていまいが、悪いことはしない」という美学もあります。
「家族が何よりも大切だ」という美学もあれば、「自分こそが大切だ」という美学もあり、「私の事業を手伝ってくれる部下や仲間が何よりも大切だ」という美学もあります。
「サディスティックに責め続けることが教育だ」という美学もあれば、「大きな風を作って、その風になじませることこそが教育だ」という美学もあります。
それらすべては、その人の行動体系を創り上げます。

幼少時から醸成された美学が収入の格差を生み出しているように思います。人々に歓迎される美学意識を持つ者が高所得者となり、人々に歓迎されない美学意識を持つ者が低所得者の道を歩んでいます。国家としては、この低所得者を守る義務があります。それは、そのまま美学意識の低いものを守るのが国家の役割ということになります。

逆に言えば、「教育」というのは、人々に歓迎される美学意識を作り出す活動である、とも言え、国家の最重要課題になるのです。それを強く認識している国と認識できない国で、国家間格差が生まれます。高度経済成長時代の美学意識が、国を繁栄させ、その後の美学意識が国を廃れさせている、と言っていいかどうかはわかりません。

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