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風本流医療構造改革・論議編

その16「必要な医療と不要な医療」

はじめに

子宮頸ガンの原因の一つとなりうるヒューマンパピローマウイルスに対するワクチンに対して、公費助成するべきかどうかが議論されています。情緒的に考えると、「それでガンを予防できるのだから、公費助成した方がよい」という話になりますし、科学的に考えると「ウイルスの一部に対するワクチンに過ぎず、効果の程度は疑問である。一方では副作用などの問題もある」という話になってきます。

ワクチンが必要か不要かと言われれば、必要というストーリーも不要というストーリーも作れます。こういった場合、科学的でないストーリーを好む日本民族は、情緒的な方向で必要論、不要論を論じることが多いようです。

必要な医療・不要な医療とは

さて、日ごろ皆さんが受けている医療サービスを分析してみると、必要な医療、不要な医療に分けることができます。必要な医療というのは患者に選択権の余地がない医療です。不要な医療というのは、この世に存在しなくてもいい医療という意味ではなく、その受療に関して受診者側が選択権を持てる医療という意味です。

目の前に急激に腹痛が発症して苦しんでいる患者がいるとします。青ざめて、脂汗をかいて、身体を丸めて、うめき声をあげています。今にも、意識を失いそうです。このようなときに要求される医療は、まさに必要な医療です。すばやく原因を判明させ、治療してあげなければいけません。
「手指の関節が痛くて、物を握ることもできない」当然、治療が必要です。「骨折した」「怪我して出血が止まらない」「蕁麻疹ができた」「じっとしていても息苦しい」「脳梗塞を起こした」「心筋梗塞を起こした」「食道がんが発生した」などは、すべてすぐに治療が必要です。

「すぐに治療が必要である。決して放置するわけにはいかない」という場合に提供される医療は、まさに必要な医療です。医療なしでは重大な結果が待っています。

命の危険が差し迫った患者を前にして、「この治療はとんでもなく高額ですよ」と迫るわけにはいきません。ゆえに、「医療は非営利でなければいけない」と言われています。治療を受けるしかない、弱い立場に追い込まれた患者を守るための不文律です。つまり、絶対に必要となる医療は、患者本人が負担する費用が格安でなければいけないのです。その原理に基づいて、健康保険制度が生まれました。満遍なく全国民から費用を徴収し、病気になった人に分配して、病気になった瞬間に必要となる本人負担の費用をできる限り安くしようという試みです。

ここで述べたことを理解すると、非営利行為として提供されるのは絶対的必要医療であり、これを健康保険制度でカバーしなければいけないという大原則論が成立します。しかし、健康保険制度が完成して40年以上たつうちに、医療の進歩とともに制度のひずみが生まれ、この大原則がいつの間にか忘れられました。「健康を守る」という事象に対して、情緒的な意見が支配的になったのです。具体的には、患者が何ら症状を感じていない予防医学分野(高脂血症など)が公費のターゲットとなり、また医師側が研究目的で実施したいと思っている医療も公費負担となりました。その結果、医療費の高騰が生じているのです。医療費亡国論という極論がありましたが、「絶対的必要医療に対してのみの健康保険制度」の大原則を忘れてしまうと、まさにその極論が生まれるのです。

峻別がもたらすもの

ところで、皆さんは必要なモノと不要なモノ、どちら価格的に高くて、どちらが安いと思いますか?

瞬間的に「必要なモノが高いに決まっている」と答える人が多いかもしれませんが、よく考えてみてください。たとえば、皆さんの生活に絶対に必要な塩と米。この2つは高いですか?安いですか?
一方で、皆さんの生活に不要なモノといえば、何が思い浮かびますか?私はシャネルのバッグに、カルチェの時計を連想します。この2つは安いですか?

社会の法則としては、必要なモノは安く不要なモノは高いのです。不要なものを価格的に高く維持するためには、一言で表現できない苦労と工夫がたくさんありますが、その中に大きな価値があるのです。不要なモノを喜んで受け取ってもらうためには、その後ろ側に莫大な苦労と工夫が潜んでいるのです。

必要な医療と不要な医療をごちゃ混ぜにして、同じ一つの健康保険制度の中にいれてしまうと、不要な医療を提供するのに際して「苦労と工夫」という価値は生まれません。具体的には健康教育、健康管理指導という価値が生まれないのです。現状の医療社会を見て「説明不足は解消された」などといっているようでは、レベルが低すぎて話になりません。
不要な医療を価格的に高く提供しても患者側が満足してくれるようにするための工夫、努力、苦労・・・これを積み重ねることが不要な医療を成長させる土台になるのです。「不要な医療」とは、この世になくなってしまったほうがよい医療ではありません。この世には必要ですが、人の価値観の多様性に応じて、あってもなくても構わない医療ということになります。死ぬことが分かっている患者に対する末期医療、治せないということが分かっているガンに対する諸療法などは、予防医学分野と同様に絶対必要な医療ではありません。

必要な医療、不要な医療を峻別する。健康保険制度では絶対必要な医療のみを提供し、その内容を技術的に高めていく。不要な医療は、その医療サービスの提供の仕方(特に健康教育のあり方)に苦労と努力、工夫を積み重ね、公費助成や健康保険がなくても喜んで受け入れてもらえるものへとレベルを高めていく・・・。これは、日本の医療社会の成長に直結するように思います。予防医学分野はすべて不要な医療になります。前述した「死ぬことが分かっている患者に対する末期医療」「治せないということが分かっているであろうガンに対する諸療法」も不要な医療です。ダイエット医療、容姿、体力、意欲の回復医療、セカンドオピニオン、低身長治療、不妊治療、人間ドックなども同様です。ちなみに、子宮頸ガンのワクチンは不要な医療に属します。情緒的に考えると「必要だ」と叫ばれますが、冷静沈着に考えると受療する側が選択の余地を持っているという点で絶対必要でない医療、つまり不要な医療なのです。

おわりに

従来型の医療機関は、健康保険制度下で必要な絶対医療のみを提供する医療機関へと変身して、その技量を高めることに全エネルギーを注いでいただく。そして、不要な医療は健康保険制度から外し、メディカルサロン型クリニックや国家直轄の医療機関で健康教育を正面に、新人医師の育成、研究課題の解決などの目的を側面にもって提供される医療にするべきだと私は思っています。

医療社会三分割論のうちの従来型医療機関、つまり健康保険制度を利用させる医療機関の役割の基本は「必要な医療のみを提供する」というところにあるのです。必要な医療と不要な医療を峻別し、必要な医療に対してのみ国民皆保険を実施するのが重要な原則です。

なお、不要な医療に分類した「死ぬことが分かっている患者に対する末期医療」「治せないであろうということが分かっているガンに対する諸療法」などに対しては、民間の保険を導入し本人の価値観に応じて健康な頃から加入しておくという制度を作るのが行政上の良い選択になりますが、これに関しては、次の機会にお話しします。

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