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風本流医療構造改革・論議編

その21「高齢症候群(本編・・・高齢症候群の概念創設と高齢者のための医療制度)」

過剰診療の定義、必要性、不要性と基本構想

58歳の男性が人間ドックを受診して、胸部CTを撮影したところ、肺に直径3cmほどの影が見つかりました。いわゆる「腫瘍発見」という状態です。精密検査が必要となり、高度な機能を備えた病院を受診することになりました。胸部X線と胸部CTの撮り直し、MRI、気管支鏡、ラジオアイソトープを用いた諸検査、PET、呼吸機能検査その他もろもろの検査が実施されました。さらに手術が決まると、術前検査一式が執り行われます。

過剰診療の定義、必要性、不要性と基本構想手術後に「腫瘍は取りきれた。リンパ節転移もなし」と判定されても、「念のため、抗がん剤を投与しましょう」という話になります。場合によっては「放射線療法も行ったほうがいいです。あくまで、念のためですけど」となるかもしれません。まさに、検査、治療のフルコースです。莫大な費用がかかり、基本的にその費用は健康保険からの支出と本人負担分で賄われます。ただし、本人負担分はその大半が公費で補填されることがしばしばです。

そのすべての検査、治療は本当に必要なのでしょうか?検査の中には「研究のためにデータがほしい」という目的のものや、「こういうガンの場合は、どんなふうに写るのだろうか」という興味目的の検査もあります。抗がん剤投与に関しては、「必要か不要かは分からないが、念のために投与しておく」という程度の認識のこともしばしばです。「念のため」を拡大すると治療範囲が際限なく広がっていきます。

35歳の男性が頭痛を訴えて来院しました。患者を診察してすぐに「この頭痛のタイプは緊張性頭痛と判断して間違いありません。あまり心配しないで、この鎮痛剤を飲めばいいです。日常生活の注意点は・・・。では、お大事にしてください」と語る医師もいますし、「万が一、脳動脈瘤や脳腫瘍などの重大な病気が潜んでいたら大変です。頭部CTと頭部MRIを撮影しましょう」と語る医師もいます。
不要な検査や不要な治療を実施することを過剰診療といいますが、過剰診療は悪事なのでしょうか?前出の場合は、悪事ではないと考えるべきだと思います。必要悪であると判定するべきでしょう。
その過剰行為には余分な費用を要してしまいますが、医師の技量向上、研究活動の底辺拡充つまり医学進歩の底上げ、患者の不安払拭などに役立っているからです。しかし、重要な理由はそれらではありません。前出の場合が悪事でないと断定する根本部分は、患者が58歳と35歳という現役世代であり、同世代から徴収した健康保険料を財源として実施されているからです。同世代で集めあったお金で同世代の健康をお互いに守りあっているのです。だから、最終的には悪事ではないと判定されるのです。

では、高齢者の場合はどうでしょうか?その場合は悪事になると断定します。高齢者の医療費の40%は現役世代から徴収された保険料で賄われています。その保険料は、飽和経済の中で所得も増えず、あらゆる自粛を余儀なくされ、子育て、住宅費の出費に追われ、日々の生活資金に苦しみ、自由を失っている現役世代から徴収した金銭なのです。高齢者への過剰診療は決してあってはいけません。医療関係者だけでなく、全国民がこの問題をもっと真剣に考えなければいけません。
ただし、なぜ過剰診療が必要になるかといえば、検査行為、治療行為の単価が安すぎるからという現実があります。医療機関を維持するのに必要な、莫大な費用を過剰診療なしでは補えないのです。これは揺るぎない現実です。

高齢者が異常に増加した日本社会においては、医療サービスの在り方に抜本的な改革が必要です。以下のような構想が一例として挙げられます。

高齢者への医療サービスに使われている医療費を40%削減することにより、現役世代からの拠出金を消失させる。その代わりに、現役世代への個々の医療行為の単価を高めることにより医療機関を維持する。それを実現するために、最近20~30年の科学技術の進歩のおかげで高度化した診断技術、治療技術や多数の医薬品投与そのものが、高齢者にとっては過剰診療にあたるという定義を定める。そして、過剰診療部分を望む高齢者には自費診療の門戸開放という次の概念を導入していく・・・。

患者の年齢に応じて医療サービスは変わるべきか

患者の年齢に応じて医療サービスは変わるべきかある人にガンが見つかったとします。その患者は自分の身体の行く末が不安になり、何とかしてほしいと願います。何とかするのは医師の仕事です。医師はそのガン患者の病態を分析検討し、治療方針を提示します。

医師にとって、病気を見つけ治療することはまさに仕事です。治癒の見込みがあるかないかに関わらず、治療方針を提示します。その提示を受けた患者は、希望的に「それで治るのだ」と自己暗示をかけようとします。当然、治癒の見込みが十分にあるガンから、治癒の見込みのないガンまで、あらゆるガンに対して、医師側は何らかの治療の方針を提示します。医師側から「まったく治療の手を施さないでおきましょう」ということはありません。治癒の見込みがなくても、一応、症状に対する治療の手立てはすすめられていきます。患者側も、「治療の必要はありません。放っておいてください」ということは、まずありません。何とかしてほしいから病院に通っているのです。

提示された治療方針を受け入れたとき、そこから治療が始まります。手術で切除するだけの治療から、放射線療法、化学療法の組み合わせなど高度医療を駆使する治療までさまざまです。この治療費は自己負担分を除いて、健康保険で賄われます。「健康保険で賄う」=「主として現役世代から広く集めたお金で治療する」ということです。

さて、この患者が90歳を超えていたとします。ぴんぴん元気な90歳です。治療するのでしょうか?「ぴんぴん元気だから治療する」という選択はもちろんありえます。しかし、90歳を超えていれば主要臓器の機能低下は必須で、麻酔を行う手術に耐えられないであろうと判断し「治療しないでおく」という選択が自然です。それ以前の問題として、本人がぴんぴん元気であったからガンを探すという検査を行ったのでしょうが、治療せずに放置するのであれば何のために検査を行う必要があったのでしょうか?そこに疑問がわいてきます。
では、同じ90歳でも、寝たきり同然であるならどうでしょうか?この場合は、ほぼ確実に「治療しないで放置しておく」という選択になります。それ以前の問題として、ガンを探すという検査そのものをしていないであろうとも思われます。検査せずに、「こんなガンが潜んでいるだろう」という推定で以後を進めることはありえます。

ここまで、90歳を超えている場合に関して例示しました。では、85歳はどうでしょうか?80歳ではどうでしょうか?75歳では?と年齢を下げていくと、だんだんと話の筋が微妙になってきます。
40歳ですい臓ガンが発覚すれば、医師の立場では、なんとしてでも治してやりたい、完治させたいと思うのは当然です。社会のために生産活動を営んでいる年齢であることや、その人の収入に頼って生活している妻子がいることを思い起こすからです。一方、85歳ですい臓ガンが発覚したらどうでしょう。抗がん剤を徹底的に使ってでも治療する、と判断することには疑問を感じます。その人の収入に頼って生活している人はいないであろうとの思いが背景に潜んでいるからです。

高齢の場合、ぴんぴん元気な身体から寝たきり同然の身体まで、幅広い身体状況がありえます。そして、それらに対して「治療する」「治療しないで放置する」「検査する」「検査さえ行わない」などが選択肢として存在するのです。この選択に関しては、担当医の主観及び患者自身や患者の家族の希望にゆだねられているのが現状で、筋の通った選択の指標はありません。しかし、確実な傾向として、患者の年齢に応じて医療サービスの内容が変わることは間違いありません。

「余生」という語に注目してください。「余生」とは、辞書的には「盛りの時期を過ぎた残りの生涯、残りの人生」となりますが、その裏には、「社会へのアクションを手控えて、安らかに死に行くときを待つ」という意味が潜んでいます。「死に行くときを覚悟し、ジタバタしないでその日を待つ」という心得、深い悟りをもつことを意味しているのです。その余生を支えるのに必要な医療サービスが、現役世代を支える医療サービスと同じであるはずがありません。

加齢に伴う身体変化

加齢に伴う身体の衰えに関して考えてみましょう。

人の身体は重大な病気にかかったりしない限り、60歳まではそうそう衰えるものではありません。容姿上の衰えや筋力、スタミナ、瞬発力の衰えは必然ですが、生活を営むという上での衰えはまずありません。最近は、性機能の衰えも軽微になったように思います。
この衰えない状態は、「鍛える」という心がけをある程度持っている人の場合に長く続き、70歳くらいまでは衰えません。それなりの高齢になってもできるスポーツであるゴルフを例に挙げると、70歳前後で競技会に出ている人は大勢いますが、80歳で出場している人はまず見かけなくなります。70歳から80歳にかけては、やむをえない急速な衰えが生じるのです。

骨、軟骨、筋肉などの筋骨格系が衰えやすく、腰痛、膝痛などに悩まされるようになります。足腰の筋肉の衰えだけでなく、心肺機能も衰え、階段を上るときの息切れや疲労の原因になります。動脈硬化が微妙に進行、脳内には命に影響しない程度の小さな脳梗塞が多発し、脳機能の低下をもたらします。細胞内の化学反応速度が低下し、疲労回復力が衰えます。実は一番早く衰えるのが目(眼科領域)で、比較的早い年代で白内障などの疾患も目立つようになります。
そういった数々の衰えの総合結果として意欲が低下します。なんとなく家で閉じこもり、外出する気分にならなくなります。消費活動も行わなくなりますので、失礼な表現ですが、社会での存在意義は低下してしまいます。

最終的に老衰という状態が存在します。寝たままで動かなくなり、そして食べなくなり、やがて栄養不足にもなり死んでいくのです。余談ですが、この老衰状態に対して、お腹に穴を開けて胃袋に管を通して栄養を与え、生き延びさせようとする治療が実際に存在しています。その治療には多くの人が疑問を感じることでしょうが、自分の家族の問題になると、違う考え方をしてしまうのが現実です。

三段階の人生設計と80歳からの死の覚悟

三段階の人生設計と80歳からの死の覚悟加齢に伴って、やがて死の覚悟という問題が生じてきます。この覚悟について考えてみましょう。

高齢者にももちろん家族がいます。妻、または夫、兄弟、子供、孫達がいることでしょう。死が悲しい別れを意味するのは間違いありません。その日が遠からず来ることを覚悟して生きていくのは何歳からであるべきでしょうか?
人は必ず死にます。その死に向かって余生を送るのは何歳からであるということに対して、社会的な意見一致を作り、全国民的な覚悟を定めなければいけません。つまり、人生のゴールというものを定めてあげて、そのゴールを目標にして人生を設計させるのです。私はその年齢は80歳ではなかろうかと思っています。

もっとも、そのゴールというのは「死」ではなく「死を覚悟することになる余生時代の始まり」のことです。そのゴールまで、きっちりと生き抜いたときに、「人生頑張りましたね」という余韻を味わいながら、死を覚悟し、死を迎える時代を送ることになります。

さて、私は人生を3段階に分けて考えるべきだと思っています。盛んな社会活動を行い、社会に対して生産活動を営む50~65歳までの現役時代、社会的義務から解放された引退後の人生を楽しむリタイア時代、80歳のゴールに到達した後の余生時代の三段階です。そして、その三段階の人生を日本人の思想の中に明確に埋め込んでいくべきではないかと思っています。もちろん、若いころの仕事での活躍次第では、40歳代でリタイア時代に突入できる人もいることでしょう。結局は、「今すぐ仕事を完全にやめても、残りの人生は裕福に生きていける」という状態を何歳で獲得できるかが、ある意味での人生レースのようになっています。

人生の最も楽しめる時期はリタイア時代にあります。現役時代は社会のため、人類の継続のために働かなければいけません。油断なく、隙なく、怠慢なく働き、引退後の人生を楽しむ資産的蓄積を作らなければいけません。その任務を終えたら、任務達成の満足感とそれまでの蓄積を使って、80歳のゴールまで大いに消費活動を楽み、そして、80歳になると同時に、明確な心の区切りをつけるようになって欲しいのです。

つまり、「65歳までは社会に貢献するため一生懸命に活動しながら、社会的義務を果たし、リタイア時代を楽しむための蓄積を築く。65歳から80歳まではゆとりを得て人生を楽しむ。そして、80歳以後は自己の人生の総整理をしながら、静かに社会の変化を観察し、死を覚悟して余生を楽しむ」という人生設計を企図してほしいものです。
と言っても、もちろん80歳を超えても、知的能力、身体能力を維持もしくは向上させる不断の努力を忘れてはいけません。

ここに、日本国家における死生観、人生観というものが誕生します。その死生観、人生観を先行させてこそ、それに応じた国家体制を築く方針が創設されるのです。

余生を支える国家体制

ゴールである80歳を迎えたら、仮に1円の資産を持っていない人にも、静かに社会の変化を観察しながら、趣味に興じて余生を楽しむという生活を与えてあげなければいけません。国家が、その生活に対する保障体制を築き、「我が国にいる限り80歳まで生き抜けばあとは生活の不安はない」という風潮を作れば、80歳までの消費意欲が高まり、身体機能の衰えが軽微な60歳代、70歳代で消費活動を大いに楽しもうという本能が芽生えてきます。「80歳ちょうどで全資産を使い切った人にはこのような桃源郷生活を提供する」という国家的保障体制ができればありがたいものです。

その上で、80歳のゴールを迎えると同時に「やがて来る死を覚悟し、余生を味わう」という心構えを持つのがよろしいです。
国家がどのような構想で保障体制を築くかは、別の課題になりますので、ここでは述べません。

ガン治療で、壮絶な闘病生活を希望するか

ガン治療で、壮絶な闘病生活を希望するかある人にガンが見つかったとします。手術で取りきれるレベルではありませんでした。となると、その先には壮絶な闘病生活が待っています。その闘病生活を送る背景心理には、「助かるかもしれない」という希望があります。希望があるから、壮絶な生活に耐えることができるのです。

40歳なら、その壮絶な生活を受け入れることができます。50歳なら、60歳ならと年齢を切り上げていくと微妙になってきます。80歳を超えていたら壮絶な闘病生活を望む人は急減することでしょう。

手術で取りきれないガンに対する治療には莫大な費用がかかります。その費用を負担してでも治療に取り組む意欲があるかどうかという問題も加味されます。このタイプの話で、注目するべきなのは、重粒子線療法、リンパ免疫療法など、「健康保険が使えません」という治療ほど効果がありそうな気がするという人間心理が見えてくることです。

では、「ちょっとした手術で取りきれて完治できる」というガンが見つかったとしましょう。この場合は、費用の問題など眼中になく、ほとんどの人が治療してもらうことを希望することでしょう。仮に、「その手術には健康保険がききません」というガンであったとしても、手術を受けることを希望するはずです。この場合は、80歳を超えている人でも治療を希望する人が大勢いると思われます。ちょっとした手術で取りきれるガンの場合は、保険がきかなくても治療費が比較的安価なのです。ただし、ここで言う手術で取りきれるようなガンは、高齢者の場合、治療しないで5~10年放置しても、まだ身体に影響を与えないことがしばしばだということを知っておいてください。

人間心理的に、「治りそうなガンなら、いくら費用をかけても治療してほしい」「治りそうにないガンであり、費用を負担しなくていいなら、徹底的に治療してほしい」「治りそうにないガンであり、負担する費用が増えるなら、治療はいらない」「治りそうにないガンでも、どれほどの費用がかかろうが自分で負担する。壮絶な闘病生活になってでも、徹底的に治療を遂行していきたい」などの意向は存在しますが、「治りそうなガンだけど、費用がかかるなら治療しなくていい」というのは、まず存在しません。

このようにガンが発覚した時、治療そのものへの向き合い方については、医師からの治療方針の提示以前には患者側が強い選択権を有しているのです。ですから、ガン治療に関して、国民皆保険型の健康保険制度を死守することは、患者側にとってはあまり意味がなく、民間のガン保険の「ガンが見つかったら、いくらもらえる」という保険制度のほうが優れていることになります。
一方、医師側にとっては、医師の主導権下ですすめられるという意味で、国民皆保険型のほうが都合はいいことになりますので、この分野の改革は難しいのです。

さて、ここでもう一つ言いたいのは、高齢者のガンに対し「探す」という検査を健康保険で行うことの意義を再検討してほしい、ということです。すでに死を覚悟している世代の人に対して「ガンが見つかりましたよ」という話をすることがいいのか、それとも「ガンがあるかどうかわかりません。ないと思いますよ」という話をするのがいいのか、どちらが優れているかという問題です。
費用と治療選択についての議論は、従来からタブーとされてきた分野ですが、この分野の議論を深めないと、医療制度の根本的な改革はすすめられません。これらの現実的な考え方は、財源問題を再検討しなければいけない高齢者の医療を支える保険制度がどうあるべきかの問題と連動してきます。

医療制度と財源問題

日本国憲法により「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が全国民に保障されています。そして、国家は全国民をその状態に置く義務を背負っています。その中で、すべての人が安価で公平に受領できる健康保険制度は大きな役割を担っています。健康を害する状況に出会ったとき、医療サービスが必要であるなら、健康保険制度下において医療サービスは気軽に利用できるものでなければいけません。

ところが、そこから先に問題が潜んでいます。医師は、職業的本能で過剰な医療サービスを提供しようとします。患者は、過剰な医療サービスを喜ぶ本能を持っています。したがって、この両本能の接点において、「必要最低限の医療」ではなく、「高水準、十分、過剰な医療」が提供されていくのです。その「高水準、十分、過剰な医療」が、高騰する医療費を上触れさせています。
この医療費を支えるのは、経済不況の中であえぎ苦しんでいる上に、子育てで莫大な費用がかかっている現役世代の人たちです。ここに健康保険制度の側面的実態の輪郭が明瞭になってきます。高齢になるほど医療サービスは必要になります。その高齢世代の医療費を支えるために必要な金銭は、生活に苦しんで将来不安を抱えている現役世代から徴収されている、という構図が成立している輪郭です。この構図を是とするか、非とするかには全国民的議論が必要です。しかし、将来の日本を担う子供の育成に対する支援を行うことにさえ否定的な見解が噴出している我が国ですから、筋論で進めれば、その結果は明白だと思います。

症候群とは

ところで、少し話をそらしてある医療用語を解説します。

「症候群」という概念があります。辞書的には、「根本となる1つの原因から生じる一連の身体症状、精神症状」のことをいいます。

例えば過換気症候群というのがあります。日常的に比較的よく見られる病態です。つい先ほどまで普通に生活していた人が、急に「苦しい。胸が苦しい。呼吸ができない。死ぬ~」と叫びだします。その他に「手足(や唇)がしびれる」と訴えることもあります。その人の様子を見ると、「はあ、はあ」と一生懸命に呼吸しています。あわてて救急車を読んだりしますが、病院に到着する頃には落ち着いて治っています。この原因は、「呼吸の行いすぎ」です。何かが原因で不安心理が高まって、呼吸をしすぎることにより、血液中の二酸化炭素が肺から大量に脱け出てしまい、血中の二酸化炭素濃度が一時的に低下して生じる現象です。この場合、「呼吸の行いすぎ」という原因から、多彩な症状が生まれています。この原因とそこから生じる一連の症状のことを症候群といいますので、この場合は、過換気症候群と名づけられているのです。

胃切除後症候群というのがあります。手術で胃を取ってしまうと、胃がなくなることから多彩な症状が生まれます。消化吸収の障害、食べ物が急速に小腸に送り込まれることから生じる障害(動悸、立ちくらみ、めまい、疲労感、低血糖、発汗)、食道への逆流、ビタミンB12の吸収障害による貧血などです。原因は「胃を切除したから」と明白ですので、これら一連をまとめて、胃切除後症候群といいます。

人間社会で生きている皆さんには、「アスペルガー症候群」を知っていただければと思います。日常生活の人間関係に何かと役立つと思いますので、一度勉強してみてください。

高齢症候群の概念創設

何となくこんなものだけど、どうも正確に表現しにくいというものが身の回りにたくさんあります。それに対して、1つのキーワードを生み出すことにより、一気にイメージ、概念的な決着がつくことがあります。

たとえば「ストーカー」という語です。何かに執着して、ある人につきまとっていやがらせをし、ときには重大な被害を与えることがあり、犯罪の元にもなる・・・というようなものは昔からありましたが、どうも表現しにくかったのです。しかし、「ストーカー」という語が生み出され、そのイメージは単語一つで決着がつけられました。今では「ストーカー」と聞けば、「ああ、こういうものね」というイメージがすぐにわいてきますし、法律用語にまで利用されるようになっています。1つの象徴的なシンボル用語が、瞬間的に理解を呼び寄せ、コミュニケーションを容易にし、問題を解決してくれることは日常に意外と多いのです。その単語の発案がコミュニケーションを進歩させます。

高齢化社会を迎えて、その高齢者に対する医療の在り方、それも若い人の病気に対する治療とはまた異なる医療サービスのあり方を検討しなければいけない時代になっています。高齢者というのは、一般的には社会的に生産的な活動はあまり行っておらず、余生を送っている状態であり、死にゆく前段階であるという前提を持っています。そして、身体能力、知的能力的にも衰えが目立っています。それでも、国家としては、その当該者が健康で文化的な最低限度の生活を送ることを保証しなければいけません。この状況に当てはまるキーワードとして「高齢症候群」という新造語を提案します。この一言をキーワードとすれば、高齢者医療への改革を進めやすくなります。

高齢症候群医療制度の創設

高齢症候群医療制度の創設政府は75歳以上に対して後期高齢者医療制度を設けています。その内容は誤解を招いている部分もありますが、かなり的を得ていると私は思います。1人の高齢患者が分散していくつかの診療科に通っている事態に対し、かかりつけ医を定め一本化させるという基本路線は正着です。その底辺には高齢症候群に対するイメージが潜んでいます。ですから、その患者の病名は「多発性脳梗塞」や「骨粗しょう症」などの従来の病名ではなく、加齢に伴う衰えから発しているので「高齢症候群」という総称にして、1人の医師が担当すればいいのです。

しかし、残る問題は、現状において費用の40%が現役世代により構成される健康保険組合からの拠出により成り立っているという点です。現役世代の健康保険料からの負担を0%にすることを目標とした新制度作りを目指さなければいけません。「かかりつけ医を定め、月額の医療費を固定化させ、その枠を超える部分に対しては別設定を設ける」というのは、私が主張する「高齢者に対する高度先進型医療サービスの提供は健康保険の枠外とする」を目指すうえでの過渡期であるという見方も可能です。そのような観点からは、政府の取り組みは未来を見据えた正着の取り組みのような気がします。

75歳以上に対する後期高齢者医療制度は、「高齢症候群医療制度」と名称を変更し、死生観の議論、人生三段階の議論を巻き起こすことを前提として、必要最小限の医療サービス提供が健康保険制度の本義であることを周知していくのがよいと思います。ただし、75歳が適切かどうかは再検討が必要です。

高齢症候群に対しては医療サービスの内容を必要最小限にして、医療費を40%削減することを目指します。医療機関の収入減少に対しては、健康保険制度外の医療サービス提供を推奨します。また、処方せん医薬品に対する自己負担割合を再検討し、「医師からもらう薬を指名し、担当医がアドバイザーとして君臨する」という形式のスタイルへと格上げし、薬漬け医療、薬頼り医療から脱却することを目指します。

この保険制度においては、安全に自然に安らかに死に行く体制を築くことを目的とすると明記したほうがいいように思います。ただし、

  • 救急医療は別枠である
  • 「自分は特別な人間である。自分の死は軽くない」「ガン検診も盛んに行って早期発見早期治療、高度な治療を求める」「自然に安らかに死ぬというのには納得できない。壮絶な闘病人生を歩みたい」という人に対して、健康保険制度外の医療サービス提供の門戸を大きく広げる。特に、ガンに対する民間保険を導入しておく

という付加条項が必須と思われます。

救急医療は別枠で

突然意識を失い倒れてしまう病気があります。患者はたいてい救急車で搬送されます。代表的なのは、心筋梗塞、脳梗塞、脳出血、クモ膜下出血、大動脈瘤破裂などです。また、交通事故にあった際も救急医療機関に搬送されます。救急医療に関しては、国家が中心となって、患者負担0円の医療システムを築くことが私の医療構造改革案の骨子の一つです。高齢であっても救急医療の受療に関しては、現役世代同様の扱いになります。ただし、高齢症候群患者においては事故以外の緊急手術は行わない、人工呼吸器は使用しない、医師の技量向上に役立つ緊急治療なら遂行する、などの決まりは必要と思われます。

まとめ

私は決して、高齢者の命を軽視しているわけではありません。むしろ高齢の人たちが、ぴんぴん元気で長生きしてくれることを望んでいます。かつての書籍には、「高齢をものともせず、恋を楽しみ、おしゃれを楽しみ、男女仲良く公園を散歩する。そんな社会を実現したい」というメッセージまで発信しています。その私ですが、国家の態というものを考えたときに、せざるを得ない提言をさせて頂きます。

  1. 死生観の議論を深め、「安らかに死に行くことを支援する体制作り」が高齢者に対する医療制度の本義となることを周知させ、余生を送る世代に対する医療サービスの内容を再検討する。
  2. 「余生を送る」にふさわしい年齢を定める。それが80歳以後であるべきか、75歳以後であるべきかを再検討する。そして、その年齢(80歳、あるいは75歳など)を越えた人々に対し、高齢症候群という概念を創設し、後期高齢者医療制度を改変していく。
  3. 高齢症候群医療制度の範囲を超える医療サービスは保険外診療(=自由診療)で受けることができるという分野に対して門戸を広く開放した上で、高齢症候群医療制度が提供する医療を必要最小限化し、現役世代が加入する医療保険からの拠出金をなくす。
  4. 救急医療に関しては、自己負担がない国家主導の別枠の医療制度を築いておく。

お金がない高齢者への医療サービスはどうする?

お金がない者には死ねというのかと極論的に叫ぶ人がいます。その叫びに対して政府は弱腰です。現実的には、お金がなければ日々の食事にありつけないように、お金がなければ医療を受けることができず、自然治癒困難な病気にかかったときはやがて死なざるを得ないというのが正当論です。その正当論を前提として、救う手法を考えなければいけません。

自分がお金を支払っていないのに、自分のために多くの医療従事者が動いてくれているということは、自分以外の誰かがお金を出してくれていて、そのお世話になっているということです。人としての尊厳があるのなら、そんな状況には耐えられないと考えるのが自立した人間の考え方です。人としての誇りを持って自ら死を選択する、と考えるのも人の道というものかもしれません。

そんな事態にならないように、若いころから一生懸命に仕事をし、私利私欲を控えて、投機的なことには自己の蓄積とよく相談して取り組まなければいけません。人生のどこかに油断、隙、不用意な自己顕示、欲につられての投機行為があったから、極論を叫ばなければいけない立場になっているのです。その人たちを救うのは国家の真の義務とはいいがたいものです。高齢になったら、衣食住はもとより、体の維持にお金がかかるということを人生のスタート地点でよく心得て、そのための蓄積作りに励まなければいけないのです。
ただし、ここで申し上げているのは、あくまで高度な医療(=高齢者にとっての過剰診療)を受ける場合の話です。通常医療は皆が受療することができて当然です。高度の医療=高齢者には本来は不要であった医療、という認識を徹底させる必要があります。また、不慮の災害に出会った人や若いころから難病を患っていた人は別扱いです。

実現への課題

高齢化社会対応型の医療制度を手早く実現するには、死生観、余生の在り方、現役世代を過剰に苦しめてはいけないという誇り、衣食住に配分する日常資金を医療に対しても配分しなければいけないという価値観、医療社会の実情などを諄々と説いて、全国民を感動させ、賛同させることができるスーパーエースとなる人物の出現を必要とします。その人材の出現が、高齢化社会問題を解決するキーになっているように思います。

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