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風本流医療構造改革・論議編

その21「高齢症候群(冒頭編・・・本能の方向性)」

ルーツ

私が高校生まで生活していた実家は料理屋を営んでいます。すし、鍋料理、会席などの和食を提供する店で、100人以上の客が入れます。夕方から深夜まで営業しています。

いわゆる家業があるという生活環境でした。家業がある家に生まれた子供の宿命として、私は中学1年生のときから、その店を手伝うという生活を余儀なくされました。学校を終えて家に帰ってきたら、そのままカバンを置いて店に向かいます。そして営業時間前は仕込みを手伝い、営業時間中は食器を洗い続けます。時にはフロアに出て、注文を聞き取ったり、できた料理をお客さんのテーブルまで運んだりします。レジを担当したこともあります。半腰になって、決して破損させることなく食器を大量に洗ったり、鍋にこびりついた食物残留物を洗い落としたりするのは大変な作業です。電子化されていない時代ですので、注文を正確に聞き取り、間違えることなく板場に伝達するのも簡単な作業ではありません。中学生に過ぎない子供が大人の顧客とコミュニケーションをとるのも大変難しいものでした。

中学生時代に、仕事の現場で働く人の姿を見る毎日になりました。従業員は、経営者である私の親が現場にいるかいないかで、まるで態度が違います。上司から部下に対する仕事現場での「いじめ」というのは、「存在する」というより、むしろ「日常のことである」のを悟りました。この「いじめ」と「調理技術の継承」が絡むことにより、複雑な様相を呈することも知りました。

そんな人間関係はイヤだな、と思いました。そして、このままだとその店の跡継ぎにされる可能性があることを知っていた私は、その世界から脱出したいと思いました。そのためには勉強して成績を上げ、学業で勝負する人生を選択するしかないということも悟りました。思えば、「学業で勝負する」というのは、周辺からの押し付けではなく、与えられた生活環境から脱出するために自ら選択した道なのでした。以後、学校と店の往復の生活時間の中からわずかな時間を確保し、猛勉強に励みだしたのです。

さて、子供のときに「料理屋を手伝う」という生活の中で接客、接遇、顧客満足、接客業の裏方、職場の人間関係などを本能の中に埋め込むことができました。「来て良かった」と思ってくれたお客さんは、必ずまた来てくれます。それも知人を連れてきてくれます。「来て良かった」と思ってもらえなかったお客さんは二度と来てくれません。お客さんに対して店の存亡を賭ける真剣勝負が展開される毎日の中で、接客ビジネスでは当たり前とされるこの基本法則が、中学生の私の本能の中に深く浸透しました。

医療社会に足を踏み入れて

医学部を卒業し、医師になって私は医療社会に足を踏み入れました。私が幼少時から身につけた観点から見ると、多くの矛盾を感じました。「医療サービスの充実」などといわれますが、その接遇、満足度獲得という分野においてあまりに幼稚です。権威を武器に有難い気分にさせているという実態だけが浮き彫りになってきました。そして、その実態を「専門職だから」、あるいは「医は仁術」などという美名により、批判にさらされないように取り計らっています。患者は不満でも、医師から最後に「次は1ヵ月後に来てください」といわれたら、1ヵ月後に来院せざるを得なくなります。不満を持つ者が大量に通院しているという、料理店では想像もできない実態でした。
平成元年以後、マスコミの批判にさらされて、この分野はずいぶん改良されました。幼稚さからは脱却できましたが、未熟であることに変わりありません。

診療行為により発生した費用は、本当に必要であったかどうかが検討されることなく、そして顧客満足度と関係なく、社会保険基金に請求することができます。それらは一言で言えば、過剰診療をもたらします。不要な診察、不要な検査、不要な治療を実施することを過剰診療といいますが、患者に対して過剰診療を展開することなどわけないことなのです。本人負担が3割になり、若干様相が変化しましたが、1割負担の時代はすさまじいものでした。追記しますが、患者負担の割合が変われば、提供する医療サービスの内容が変わるという現実に、疑問を感じなければいけません。

過剰診療の展開に関して全医療従事者は暗黙の意見一致、賛同をきたしています。私は医療社会の未来を考えたときに、本当にこれでいいのだろうかと悩みました。

私の選択は2つに1つでした。その甘い利権的構造に身を任せ、自己の裕福な人生を全うする道。その正反対が、「覚悟を決めて、改革者としての道」を歩む道。
私はもともと料理店のあとを継ぐ宿命を持って子供時代を送った人間でした。それを思い起こしたとき、私の革命家としての本能が高まりました。

「改革が最後まで受け入れられず、医療社会からつまはじきになってしまったら、元の料理店に戻ればよいだけだ。私は医療社会から医師免許を授けられたのではなく、日本国から医師免許を授けられたのだ。天下国家のために医療構造改革の路線に乗り出そう」

その方向の本能がジワリジワリと固まりはじめたのです。

専門家の実態

そんな矢先、私はある書物で一片の格言を知りました。「あらゆる専門家は素人に対して詐欺的である」と書かれています。私はそれに触れて愕然としました。医療社会、つまり専門家である医師は、患者に対して常に詐欺的なのかもしれません。詐欺とは言っていません。「詐欺的」なのです。

医師は患者の医療知識を向上させることをなぜ望まないのか?詐欺的行為を実行しにくくなるからかもしれません。
なぜ診療時間が極端に短く、コミュニケーションをとろうとしないのか?権威が低下するだけでなく、詐欺的行為が露見してしまうからかもしれません。
余談ですが、弁護士、その他の専門職は素人の依頼者に対してかなり詐欺的である、と思って差し支えありません。

健康保険制度を土台とする日本の医療構造は、その詐欺的行為を野放しにするシステムを内在しています。開業医が増えて経済的飽和状態となったときには、その詐欺的行為が自然肥大するのは間違いありません。ただし、ここでは健康保険制度が国民の健康を守るために役立ち、そのシステムの中で個々の治療技術の進歩は目を見張るものがあったことは確信的に追記しておきます。

私が医師になった平成元年当事は、高齢化社会の到来が予告されていました。小児医療や壮年者に対する医療は適正適切が維持されるのは間違いないが、高齢者を対象として、集中的に詐欺的行為が肥育されるであろうことが私の心の中で予測されました。

本能の行き着く先、という観点から

日本社会のあらゆる分野を見つめるとき、その構成員の本能が行き着くところを分析すると、新しい視点でその分野が見えてきます。

病院とは人々が病気になってから、それを受け入れる組織です。その病院に従事している人が心底から「すべての人が病気にならずに健康でいてほしい」と願っているでしょうか。本当に人々が病気にならなくなったら、医療従事者は仕事を失うことになってしまいます。病気になってくれるから自分達の存在意義があり、自分達はありがたがられるのです。病気になった人を治療する医療機関の従事者の本能は、「病気になって来院してほしい」なのです。それを覆うための美辞麗句が氾濫しています。

人間ドックが普及しましたが、人間ドックは病気にならないように取り計らっているのではありません。より早く治療できる対象を探し出し、人間ドックの実行機関である関連病院へと送り込むという主導権の確保も大きな目的なのです。一種の競争原理であり、これらが「早期発見・早期治療」を謳う裏側に潜む心理です。
「肝臓病がなくなればいいのに」と心底思っている肝臓病専門医はいません。「肝臓病患者がいるから俺達に仕事があるのだ」と思っています。「C型肝炎ウイルスが発見され、輸血での感染者が激減した」となれば、社会的には大変喜ばしいことですが、一方では、肝臓病専門医は「これで肝臓病専門医の仕事が激減してしまう。他の専門に代わろうかな」と心の底でつぶやいているのです。
これらを別の視点で見れば、「統率」に関して「一つの目的行動をもった組織体において、構成員の一人ひとりの本能が、その目的に向かって一致しているかどうか」という奥深い話になっていきますが、ここでは別話を深めるつもりはありません。

そのようなことを悟ったときに、私は「病気にならないようにする予防医療を遂行する者は、対象者が病気になってしまったら、自分の元から離れてしまう。離れないようにするには病気にならない状況、指導を続けなければいけないという心理の土台が不可欠である」と発想しました。そうなると、対象者が病気にならないようにするために、本能がフル回転するようになります。一般的な医師が「病気になったら本格的な出番になる。病気になったら、その相手は自分の必要性を痛感するようになる」という本能をもっていることと正反対です。

病気になったときにその患者を迎える医療機関を営みながら、一方では人間ドックなどを運営して予防医療を遂行するというのは、本能の進む方向に矛盾する組織構造であると私は断定しました(人間ドックが不要であるという意味ではありません)。
そして、病気を治療するための健康保険医療に関しては、優秀な先輩、同輩、後輩たちに委ね、予防医療一本の人生を歩む事にしたのです。私は長年、そのときの状況を「予防医学と健康教育が未熟であることに気付き」とおおまかに表現し、「健康保険を捨て、四谷メディカルサロンを開設した」と語ってきました。その部分を詳細に語ると以上のようになるのです。

高齢者終末医療の場合

高齢者が何かの病気の結果、あるいは老衰で身体機能が衰えきった結果、ついに寝たきりになり、いわゆる終末期(エンドステージ)になった場合には、周辺人員にどのような本能が働くのでしょうか?

家族の本能は、少しでも長生きしてほしい、生きている状態が続いてほしい、となるのが普通です。それは言うまでもありません。ただし、「手間がかからなければ」という前提条件が付くケースもあります。「手間がかからないなら、生き続けてほしい」というものです。この場合は、「手間がかかるなら早く死んでくれてもいいや」となります。特殊なケースでは、「年明けから相続税が増額される」などがあると、「どうせ死ぬなら年内に」という本能が芽生えることもあります。

一方、医療従事者の本能は、「このままの状態でできる限り生き続けてほしい」になります。延々と点滴だけを続けてでも、あるいは、お腹の外から胃に穴を開け管を通して栄養を与え続けてでも、生き続けてもらいたいという本能が働くのです。治療している限り、健康保険で治療費を請求できるからに他なりません。

仮に「健康保険で治療費が請求できない」という決まりになれば、医療従事者にどのような本能が働くでしょうか?
「おうちに帰っていただき、畳の上で静かに息を引き取ってもらうのがいいと思いますよ」と発言しないといえるでしょうか。おそらく発言してしまうことでしょう。

さて、患者自身の本能はどうなっているのでしょうか?生き続けたいか、早く死にたいか、患者自身はすでに自己の意思による選択はできなくなっています。

幸か不幸か、患者が自己の意思による選択ができなくなったときに、周辺人員の本能の方向性が基本的に一致するのです。医の本質を離れて、組織存続の本能という問題が潜んでいるからそうなるのです。だから、終末医療がどうあるべきか、という問題に関して、いつまでも決着がつきません。ある最高裁判決により、人工呼吸器を故意に外したら、犯罪者になってしまうということだけは確定したようです。

以上のような背景を知っていただいた上で、「医療社会どうあるべきか」の一環として、医療社会の潜在的問題として大きなウェイトを占める高齢者医療の問題に関して、新しい概念の提案を行おうと思います。

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