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風本流医療構造改革・論議編

その7「健康保険を使う医療に期待してはいけないこと」

「説明と同意」その背景にあるもの

医学、医療というものは、本来、非常に専門性が高いものです。医師の間にしか通じない話というのが莫大な量で存在します。専門性が高いゆえに、患者に対して、横柄になりがちで、その結果、説明不足という社会的な非難を受けることになりました。私の記憶では、平成元年ごろから、「説明不足」を中心とする指摘が高まったように思います。
批判にさらされたことにより、医療社会は変貌の気配を示しました。ある病気を患う患者に対する治療手法の選択に関しては、かつての一方通告的宣告は弱まり、「説明と同意」という風潮が強まりました。

つまり、かつての「こんな病気です。このように治療します」という宣言のみの説明から、「こういうわけで、こんな病気であることが判明しました。この病気は、このようなものです。治療の方法としては、このようなものがありますが、今回の治療ではこれを行います。この治療はこういうものです。弊害としてはこのようなものがあります。よろしいですか?」という説明が行われ、「承諾くだされば、治療を開始します」という同意を求める締めくくりになります。

この時点で、患者側は尋ねたいことがたくさん出てきます。多いのは、「その治療の結果、今後、どうなっていくのか」そして、「結局、助かるのか助からないのか」などです。有識者なら「その治療の選択はベストチョイスなのか」と「その治療を選択した担当医の腹の内は?」ということを尋ねたくなります。中には「診断された病名は間違いないのか」「雑誌でこんな治療法を読んだのですが、その治療はできないのですか?」などのお尋ねをしたがる人もいるようです。知識人であればあるほど、たくさんでてきます。患者側の要求は限度なく広がり、究極は「この病院ではなく他の病院で治療したら、もっといい治療ができると思うのだが・・・」という思惑になります。

さて、そこで考えなければいけないのは、健康保険の制度というものが、この時点での医師側と患者側とのやり取りをどこまで許容しているかという問題です。
少なくとも、この説明や同意を得る過程というものに、その技量に応じた保険点数の設定はされていません。つまり理解できない説明も、時間をかけた鮮やかな芸術的説明も、たった数分の説明も延々と長時間にわたる説明も、保険制度上は同じ扱いに過ぎないのです。レベル別の保険点数設定にしても、自己採点で請求することになりますので、まったく意味を成しません。

また、「説明する」というのを保険医療現場の医師は本業としていません。医師は「病的状態を訴える患者を診察して病名を予想し、検査して病名を確定する(=診断学)」「治療の方針を考え、その治療を施し成果を確認する(=治療学)」というところに対して強い志向性を持っており、大量の患者に対して正確に診断と治療をすすめるために自己納得の世界で物事を考える習癖を持っています。その作業を大量に繰り返して、大勢の患者を捌いていくことは、健康保険制度が医師に求めるものであり、保険医はそれに特化集中して、大きな成果を上げていくことが要求されています。医師は、深く説明することや同意を得ることにエネルギーを集中させたいとは思っていません。本心では、「俺の考えた治療がいやなら、他をあたってくれ」と言い出す寸前くらいの気分でいます。

「説明不足」批判は正しかったか

さて、「説明不足である」という非難が高まって20年の歳月を経ました。健康保険制度下で自己納得の習癖を持つ医師集団に対して、「説明不足である」と非難することが、正しかったかどうかを検証しなければいけない時期になっています。

診療現場の現状を深慮すると、「説明と同意」をいうものを保険制度の枠内で収めようとすることは、何かと矛盾が発生し、現場ストレスの源となるのです。この現場ストレスが、医療社会を陰に陽に疲弊させ、時として医師に投げやりな気分を出させています。「ある病院から医師が引き上げる」という事象の最も奥に潜むものが何であるかを熟慮してほしいものです。

医師側は本心では、「俺は誠意を尽くして、自分にできる最大の努力で、一生懸命に患者と接しているのだ。だから、何の説明もせずに、何の同意も不要で、思い定めた治療を文句言われることなく、思う存分に実施していければ、そして、結果に対して凡ミスやよほどの過誤がない限り責任は問われないというふうにしてくれたら、どんなに素晴らしいことか」と思っています。医師のことを心の底から信頼して、医師のその本心を満たしてくれる患者に取り囲まれているのなら、若い頃から「労苦を惜しまず」で鍛え上げられてきた医師は決して患者を見捨てるようなことはいたしません。「医師の引き上げ事件」の根源を悟ってほしいものです。

健康保険制度下の医療に対する期待と限界

今、ここで改めて考え直さなければいけないのは、患者側の立場としては、健康保険制度下で提供される医療にどこまで期待していいのか、どこまで要求していいのかという問題です。
医療社会全体への期待でしたら、思う存分、希望を述べていただきたいと思います。そして、思う存分要求していただきたいと思います。
しかし、「健康保険制度下の医療」という前提条件付の医療に対しては、期待してよい限界、要求してよい範囲が、自動的に存在すると思うのです。この「健康保険制度下の医療」には、すべての患者に対する公平の原則があること、そして、原資は全国民から広く徴収されているため、できる限り安価で提供できるものであることという2つの原則が存在することも忘れてはいけません。

言うまでもなく、健康保険制度は「病気になって困っている人」に対する治療を公平に格安で提供できるようにする制度です。この「格安」というのは、3割負担などの患者負担率のことではなく、もともとの金額の設定そのもののことです。たとえば、採血検査を行ったとします。健康保険を実施している医療機関は、ある採血項目に対して、保険点数で何点というのが定められています。患者が負担するのは、この何点というのをお金に換算した金額(大抵は、1点=10円)の3割の負担です。問題は、この「もともとの何点」という設定が、高いのか安いのかです。

私は自由診療を営んでいますが、検査を実施した検査会社から請求される金額は、保険点数に基づく金額ではありません。検査会社は保険価格とは別に定価というのを定めています。この定価は保険設定の金額より、驚くほど割高になっています。項目によっては保険設定金額の6倍くらい高額のものもあります。
どういうことかというと、検査会社は「本来、この検査はこの価格にしてほしい」という価格(=定価)からずいぶんと割り引いた金額を保険設定金額にしているということなのです。検査の価格だけではなく、医療に関するものはすべて同様です。
医療を取りまく業界だけでなく、医師の苦労に対する報酬もすべて、「本来はこれくらいの金額であろう」と思われる金額から、かなり割り引いた数字が定められています。健康保険制度下における医療というのは、その逼塞(ひっそく)した状況の中に置かれているのです。

目を転じて、その健康保険を利用している患者の立場で考えてみましょう。健康保険を使って治療してもらっている目の前の医師に対して、言いたい放題に言って過剰に要求することが許されるのでしょうか?
要求していい範囲、追求していい範囲に大人の結論を出さなければいけません。医療が批判にさらされた平成元年ごろから約20年を経て、「説明不足」を声高に叫んだ時代から、健康保険制度を利用する患者にとっては、「求めていい範囲はここまで」を明確に定めなければいけない時代へと成熟するべき時が来ているのです。

しかし、人には知的欲求という本能があります。「求めていい範囲」が設定され、要求が遮断されると今度は患者側にストレスがたまります。このストレスはどのようにして解消すればいいのでしょうか?
そのストレスを解消することに特化した医療機関の存在なしに、解決はありません。

後世へのレールを敷くために

ここで、日本の医療社会には「健康保険を使えない医療」「健康保険を使うべきでない医療」を実施する医療機関の必要性が高まってきます。つまり、今の国民皆保険下の保険医療機関に対して、健康保険を使えない医療機関を誕生させ、その組織内容を成長させる必要性が生まれてくるのです。

さて、そこで考えてみてください。国家が制度として、健康保険を使えない医療機関を作ったところで、そこで従事する医師が現れるでしょうか?

答えはノーです。どのような医療になるのか、医師がどのように仕事したらいいのか、誰も想像がつかない未知の世界だからです。その医療機関を収益的に維持できるかどうかもわかりません。どこかの道路みたいに必要だからといって赤字垂れ流しでもオーケーなどといっているわけにいきません。誰かが適正、適切に、この分野のレールを敷かなければいけないのです。そして、その医療機関の姿が見えるようにしてあげなければいけません。私は、そのレールを敷くためにこれまでの人生のエネルギーのすべてを費やしてきたのだ、と胸を張って語ることができます。

私のメディカルサロン創業以来の17年は、将来的に医療社会を二分化せざるを得なくなる、つまり、来るべき医療構造改革の日をにらんで、「健康保険が使えない医療」「健康保険を使うべきでない医療」を実施する医療機関の原型がどうあるべきかを築き上げてきた17年だったのです。(後に会計不要の国営病院が必要であると認識するようになり、三分化論になったことはお知りおきください)。

私が四谷メディカルサロンを創業したのは平成4年ですが、創業の初めに私が叫んでいたのは、「今の医療現場においては、健康保険制度が足かせになっている」「皆保険下医療の診察室で実施できることには限界があるので、別の舞台を作らなければいけない」というものでした。平成7年の著作である「一億人の新健康管理バイブル」(講談社)にそれらは記載されています。

健康保険制度の限界を超える患者の要求に応えるために、私は四谷メディカルサロンを開設し、「医療の家庭教師」的な立場からの医療を始めました。そして、医療社会の成熟に伴って「健康保険制度の医療の対極に位置する医療」が必要になると予見し、そのコンテンツを築き、それを実施する医療機関とはこういうものだというものを作り上げ、後世へのレールを敷かなければいけないという意気込みに燃えたのです。その後の一連の過程は、長年の機関誌である「月刊メディカルサロン」で伺い知ることができます。

専用医療機関の必要性

「健康教育の振興」「医師と患者のコミュニケーション」「担当医の腹の内を解説してあげることを土台とする治療のベストチョイス検討会(=進化型セカンドオピニオン)」「健康管理に、寿命管理、体調管理、容姿管理の三態あり」「予防医学=寿命管理の本質は、予想医学と先回り予防」「体調管理と容姿管理の行き着く先は容姿、体力、意欲の回復医療」「体重管理指導」「子供の発育に関する指導」など、私が築いてきた医療は、健康保険で提供できない医療であり、専用の医療機関で実施するべき医療なのです。

その専用の医療機関がどのような役割を演じるべきか、どのような役割を演じられるのかを後の機会にお話しすることにします。

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