HOME > エッセイ集 > どんな人間集団が強いのか?

月刊メディカルサロン「診断」

どんな人間集団が強いのか?月刊メディカルサロン2014年11月号

経営者の皆さんには戦国好きが大勢います。私も大好きです。戦国時代から何を学びとれるのか?経営者は常に関心を持っています。日本の戦国時代では、織田信長が一番好きだという人が多いようです。
信長に関しては、人それぞれで関心を持つポイントが異なるようですが、どんなポイントであれ、学ぶところがたくさんあるのは間違いありません。
そんな信長の事跡の中で、私が強く関心を持っているポイントがいくつかあります。かつての小説家、評論家があまり取り上げなかった、そのうちの一つについて語ってみたいと思います。

桶狭間の戦い 私の見解

今川義元が大軍を率いて尾張に攻め入ったものの、少数に過ぎない織田信長軍の奇襲攻撃を受けて、総大将の義元が討ち取られた・・・誰もが知っている、かの有名な桶狭間の戦いです。討ち取ったのは毛利新介良勝。その後の毛利新介を語るのも面白いのですが、それは別の機会に譲ります。関心ある人は自ら調べてください。彼は本能寺の変の際に二条城で死んでいます。
また、この戦いが奇襲戦ではなく、信長が育てた三間槍の精鋭軍が行った義元本軍に対する中央突破であると私は推測していますが、その議論も別の機会に譲ります。

義元が上洛を試みてというのは大きな作話です。尾張で勢力を伸ばしてきた信長をちょっと懲らしめてやろう、あるいは、大軍の威力を見せつけ、降参させて傘下の部将にしてしまおうという程度の気持ちで、義元は大軍を尾張国境に進めました。そして、瞬く間にいくつかの砦を落とします。あとは、信長の降参を待つだけの体制です。
そんな時に、信長の本軍が突然現れました。信長軍はわずかに2000人ほど。義元軍は総勢25000人でしたが、あちこちに兵力を分散していましたので、義元周辺には5000人ほど。それでも目の前に現れた相手の二倍以上はいます。本軍が戦いに巻き込まれることを義元は想定していなかったと思いますが、その5000人は本来、超精鋭のはずです。義元は、いっそこの戦いで撃滅してやろうと思ったに違いありません。
その日、雨が降っていたのは間違いないようです。信長はおそらく、三間槍の軍隊を前列に並べ、大声を上げ突進させたことでしょう。これより前に、信長は槍指南役の木村大膳と木下藤吉郎に100人ほどの兵を与えて、短槍と長槍の模擬試合をやらせていたという記録が残っていますので、長槍の長所を知り尽くしているはずです。
一方、「ちょっと懲らしめる」くらいの気分が蔓延していた義元軍は、命がけで戦う気力もなく、雨で士気も上がりません。一直線に向かってくる敵の長槍の突進を間近に見て、本来は精鋭のはずの軍も恐れおののいたのでしょう。後の大阪夏の陣では、真田幸村隊の突進の雨に徳川家康の旗本が逃げ散っています。義元周辺まで丸裸になってしまったことは容易に想像できます。精鋭と言っても、長年絶対安泰であった義元の身の回りを固めている人員は、実戦経験が乏しかったのかもしれません。こうして義元は討ち取られたのです。
戦前に義元が調略活動をしていなかったことも幸いしました。義元のミスは、その一点です。尾張の領土を力づくで奪うつもり、あるいは本当に上洛するつもりなら、信長の配下には本領安堵のお墨付きを与えて動揺させておき、その上で信長を攻める、という手法を取ったはずです。
「ちょっと懲らしめて信長本人を降参させ、軍を丸ごと自分のものにし、信長はかつての家康と同様に駿府城に連れ去り、自分の子分にしてやろう」くらいに思っていたから、油断して調略活動を行っていなかったのです。総大将のその油断の気持ちが配下の隅々にいきわたってしまうというのは、良い教訓になります。

信長軍2000人の心理

さて、私がここで不思議に思うのは、信長の軍に2000人もの兵が集まっていたということです。清州城を一騎掛けで飛び出し、熱田神宮で時間をつぶしながら兵を糾合したそうですが、その時に2000人もが集まったということが不思議なのです。
義元の大群に圧倒されて、全滅することが容易に予想できる状況です。何か理由をつけて家で閉じこもることもできるし、遠くで様子見してしまうこともできます。逃げ散っても、翌日には信長はこの世にいないのですから、叱る人はいません。
この2000人の心理は実に微妙です。全滅が予期されるのですから、その後の出世も褒美も何もありません。つまり、欲でつられたわけではないということです。
では、勝利を予見していたのでしょうか?あるいは、少なくとも五分五分の戦いになると思っていたのでしょうか?それも微妙です。義元軍に対して、長年の恨みのようなものはあったかもしれませんが、「ともに死のう」の心理がないと駆けつけられません。そこに信長の真骨頂があるのです。
兵が集まるかどうかに関して一番不安だったのは、実は信長だったのかもしれません。ピンチになった時に逃げ散る者達を集めて、年間365日戦える常備軍(足軽鉄砲隊)を後に編成したくらいですから、「このような時に配下の兵は集まって当然である」と信長が思い込んでいたわけではないはずです。
そこには必ず、「各員の本能の中に、日ごろから打ち込んできた何か」が潜んでいるのです。信長は、父信秀の後を継いだとはいえ基本的には新興勢力。短期間で醸成した何かです。

優れたリーダーには優れた部下がいる

さて、信長が尾張、美濃を制圧して足利義昭を迎え、軍を率いて上洛しようとしたときのこと。戦いの相手は、まずは南近江の佐々木義賢です。佐々木氏は南近江を長年治めてきた伝統ある軍団。長年の恩義が領土の隅々に行き渡っているはずです。
信長が攻めてきたときに、佐々木氏は「よ~し。かつて信長が今川義元を討ち取ったように、俺も信長を討ち取ってやる」と勇んだことでしょう。しかし、実際は・・・。
信長が攻めてきたとき、「全軍集合」と声をかけても軍は十分に集まりませんでした。佐々木氏の配下の兵は、戦うよりも逃げ散ること、あるいは様子見することを選んだのです。軍が十分に集まらなければ士気も上がりません。大敗を喫し、義賢自身もどこかに落ち延びていったのです。

絶体絶命のピンチの時に心を一つにして集まった織田信長軍と、逃げ散った佐々木義賢軍。その中には人員選抜、人員育成の原点、そしてリーダーの日ごろの行いまでもが含まれているように思います。
その辺は経営者の永遠のテーマといえるものですから、皆さん、いろいろ調べて考えてみてください。

エッセイ一覧に戻る