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月刊メディカルサロン「診断」

歴史の回答・・・丙編掲載日2019年11月30日
月刊メディカルサロン1月号

謎3「本能寺の変」

日本の歴史解釈上、最大の不納得が、明智光秀と本能寺の変に対する解釈です。
「信長の元で立身出世を遂げていた明智光秀が、信長が宿泊する本能寺を奇襲し、信長を葬った」というのが本能寺の変であり、それに対して歴史家は、「織田信長に仕え忠義を尽くしてきた明智光秀が、信長から無茶と辱めを受け、そこから生まれた主君信長への恨みから、やむを得ぬ状況に追い込まれて本能寺の変を引き起こした。そこには黒幕がいた可能性もある。また、光秀は心神喪失状態であったかもしれない」と解釈しています。私は、その解釈に納得していいとは思いません。

そもそも信長は光秀を雇用する際、明智光秀を「どのような男である」と判定したのでしょうか。
信長と光秀が初めて出会った時、光秀の立場は、朝倉義景の家臣でした。のはずなのに、足利義昭のそばにくっついて、信長の元に現れたのです。すでに朝倉家を出奔したのかもしれません。
信長は、その妙な経緯を持つ明智光秀を見て、その男を判定することになります。それにあたって、光秀の過去を尋ねているはずです。信長が知った光秀の過去は、次のようなものだったことでしょう。
「土岐源氏の末裔である。明智城の城主の息子だった。斎藤道三と斎藤義龍の戦い(長良川の戦い)の際に道三に味方し、敗れて明智城を失い、諸国を流浪した。流浪しながら、鉄砲を含む武術の腕を磨き、兵法や歴史を学び、古来のしきたりを身につけ、その結果、朝倉義景に仕えた」
信長の脳内では、この過去と目の前で自分が直接見ている光秀を照らし合わせて分析することになります。
諸国を流浪して、見聞を広め、自己の研鑽に努めてきたこの男が、朝倉義景に仕えたのです。朝倉義景は名君ではなく、凡愚であると伝わっています。
世は戦国時代。どこの大名も「できる人材」は欲しくて当然です。つまり、この時代も、求人、求職は盛んであったのです。光秀は、多くの大名から求められていたはずで、また、光秀も「仕えるべき主君選び」に生涯をかけていたはずです。
そんなことを考えながら、信長は、なぜ朝倉義景に仕えたかも尋ねたに違いありません。光秀は、真意を隠して答えたはずです。その結果信長は、「この男、主家乗っ取りの構想を描いておる」と直感していると思います。
信長は光秀に対して、「才知あふれ、勇気もある。しかし、野心が強く、虎狼のような一面がある」と判定しました。同時に、「このような男は、自己の地盤を固めるまでよく働く」と考えます。

光秀の思惑

一方、光秀の腹の中はどうでしょうか。
実力、能力のある男が、生まれ育った城を失い、諸国を流浪し、辛酸をなめれば、その中で「自分の人生、どうあるべきか」を多方面的に考えます。考える時間は山ほどありました。光秀はその中で、一つの人生構想を立てたはずです。
光秀は幼少時から、「自分は土岐源氏の(男系)末裔である」という話を聞かされていました。土岐氏は室町時代の創成期では、美濃・尾張・伊勢の三ヶ国を領する守護でした。足利義満の守護勢力削減謀略で、尾張を失った上に、土岐氏は二系統に分裂され、美濃と伊勢は別々の系統が治めることになりました。
土岐氏庶流は、いろいろな系統に分かれ敵対もあったと思いますが、明智家は、おそらく苦渋を飲む気分で美濃守護の土岐氏に仕えていたのでしょう。斎藤道三が美濃守護の土岐頼芸を追放した後、道三に従っています。
光秀は子供のころから、斎藤道三の来歴、主家乗っ取りのストーリーを何度も聞かされ、自己の人格形成に関係したはずです。
そんな中で、その斎藤道三が、息子の斎藤義龍に滅ぼされたのをまともに見ました。斎藤義龍は、道三の息子ということになっていましたが、土岐氏の後胤であるといううわさもあり、美濃の国人たち(旧土岐家の家臣団)は義龍に味方したのです。それを見て光秀は、「血脈の元に人は集まってくる」という思いを持ったはずです。
そんな光秀が、諸国を流浪しながら描いた人生構想は、「主家乗っ取り」「いつの日か自分が一定の地盤を築いた時に、土岐源氏末裔であるという血筋を活かして勢力を急拡大させる」の二つになっていました。
その二つの構想を持った明智光秀は、その実現のために朝倉義景に仕えたのです。苦労試練を避けて好み事にのみ耽って生きていきたいと思っている凡愚な朝倉義景に仕えた理由はただ一つ、「斎藤道三と同様に、この国を奪い取ってやる。この国は奪いやすい」です。

信長の思惑

そのような背景事情があって朝倉義景に仕えた明智光秀が、将軍候補の足利義昭のそばにくっついて信長の元にやってきたのです。主家乗っ取りのために朝倉義景に仕えたものの、義景の元では地盤を築きにくいと思っている矢先に、光秀には足利義昭との縁ができたのでしょう。
信長は光秀を見て、そのすべてを看破しました。普通ならここで、「この男は危ない。部下にするべきではない」と思うのでしょうが、そうでないところが信長の真骨頂です。
「俺は、こういう男が好きだ。よく働くだろう。お前を使って、勢力を拡大させようとするこの俺と、俺の元で地盤を築きたいと思っているお前は、今後はキツネとタヌキの化かし合いだよ」
それが信長の腹の中です。「危ない男だけど、ある程度の地盤を築かせるまで、みっちり働かせよう。その後は理由をつけて、排斥してもかまわない」とまで考えていたはずです。
なお、信長は同様の思いで、後に松永久秀を配下に加えています。

渦巻く思惑の果て

以後、自分の地盤を築きたいがために光秀は、信長の元でよく働きました。流れが変わりだしたのは、信長が圧倒的な勢力を築いた後のことです。「狡兎死して走狗煮らる」は、「危ない男」の抹殺から始まります。
光秀に対して、「丹波、丹後の国は、切取り次第(地元の敵を滅ぼしたら、その土地を自分のものにできる)の権限を与えた」のは、「京都の周辺にお前の地盤を作らせてやる、と命じれば、この難仕事に大喜びして命懸けで取り組むだろう」という、信長の目論見です。
光秀の調略で信長の元に降参してきた波多野兄弟を斬首にして、光秀が出した人質(母か叔母)を見殺しにさせ、後の領国経営を難しくさせたことや、武田勝頼を滅ぼした後の光秀に対する信長の仕打ち(長宗我部氏に対する一連も含む)は、「何か理由をつけて排斥すればよい(手討ちも視野内)」の思惑に起因するものです。光秀は、野心を実現する時をうかがっていたからどんなことにも耐えられたのです。
信長は、「鴻門の会」の項羽と同様で、光秀手討ちのチャンスをつかめませんでした。逆に光秀はワンチャンスを活かしました。まるで、「項羽と劉邦の戦い」の日本版です。
主家を乗っ取る人生構想を持っていた光秀と、その構想を看破しながらも「このような男はよく働く」とみて、その男を使ってきた信長の長年にわたるお互いの腹の中の果し合いにおいて、「光秀が勝利した」というのが、歴史の真実であろうと私は思っています。

さて、光秀には信長を葬った後のことに勝算はあったのでしょうか?
徳川家康の饗応役を命じられた時、光秀の脳裏には「嘉吉の乱」が思い浮かんでいたはずです。
嘉吉の乱とは、将軍足利義教(第六代)が、赤松氏に招かれた宴席でいきなり殺されてしまった事件です。この時、幕府は軍を動かせないまま時間が過ぎました。トップがいきなり殺された時に、誰が指揮をとって、どのように軍を動かしたらいいのかがさっぱり決まらず、結局、幕府は軍を動かすために、天皇の勅許をもらおうとまでしたのです。長い時間、軍を動かせないままでした。
「今、信長を討ち取れば、信長の諸軍勢はあの時の幕府軍と同じで、身動きをとることはできない。そうしているうちに畿内を制してしまい、源氏の血を引く自分が朝廷を擁して官軍となり、反織田信長勢力を自己の与党として糾合する」

これは十分な勝算に値します。

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