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月刊メディカルサロン「診断」

創業する際に、なぜ健康保険を捨てたのか?掲載日2021年4月28日
月刊メディカルサロン6月号

健康保険を使える医療、使えない医療

あるクリニックで、診療を受ける際に、
「健康保険は使えません」
と言われるとどのようなイメージを持つでしょうか?美容外科的なものや人間ドックを連想する人もいるでしょうし、「悪い医療」「不当な医療」「正当性のない医療」「金持ちのための医療」を連想する人もいるでしょう。実際に、私が創業した平成4年頃は、そのようなイメージを持っている人が多かったものです。
「健康保険を使える」ということは、厳密には「健康保険制度において、定められた病気の診断と治療に使える」を意味しています。だから、「健康保険制度上の病気」と定義されていない身体状態に対しては、健康保険は使えません。
私は、「積極的予防医療を活用する健康管理指導」という医療を築こうと決心して創業しました。病気の診断と治療ではありませんので、創業時から健康保険は使えませんでした。その観点からの創業の経緯を語ってみたいと思います。

診療現場で見た驚きの光景

私が医師になったのは25歳ですが、社会人になったのは12歳、と自分では思っています。12歳から実家の飲食店で仕事して、仕事の現場を見てきたからです。
飲食店で仕事しながら、学んだことは、
「お客様には、来てよかったと思ってもらえない限り、二度と来てもらえない」
ということでした。だから、「来てよかった。また来よう」と思ってもらうために、あらゆる努力を尽くします。
医師になって、診療現場を見て驚きました。患者に「来てよかった」と思ってもらうための努力がまるで存在しません。
病気になった場合、弱い立場です。それを気遣って診療をすすめなければいけませんが、医療提供者側は傲慢に振舞いがちです。身体的に弱い立場の相手に対して、医療者側は「費用もそれほど掛かっていないでしょ」という思いさえ持っています。中学生時代から、親が営む飲食店で仕事を手伝いながら接客現場を見てきた私には、信じられない現場でした。それでも、患者は繰り返して来院せざるを得ないのです。診療現場は、医師の独善的進行で、患者はそれを我慢して耐えているという姿に見えました。
診療の場合は、衣食住に訴える喜びやエンターテインメント的な喜びを与えることが目的ではありません。健康上の悩みに対する瞬時的解決、心の納得、回復への期待が望まれているのです。しかし、それを満たすための努力が見られず、医療者側は、診断や治療を機械的に遂行している作業現場になっているだけです。
それらを見て、診療現場は健康保険制度に甘えきっている、と私は感じました。健康保険制度の弊害だなあ、と思ったものです。

無駄な診療の横行

医師になってからの最初の数年間は、学ぶことを中心としながらも、他院の当直やパートに行って、診療技術に磨きをかけます。そのパート先や当直先で、私は衝撃的な現場を見ました。
あるパート先のクリニックでは、「今日は、放射線技師の先生が来ているからお願いね」と言って、院長の奥さんが回ってきます。何を意図しているのかというと、「風邪の患者でも肺炎の疑いがあるということにして、胸部レントゲンを撮るようにしてね」です。
ある病院の当直に行った時のことです。90歳を超える老女が末期の状態で、「亡くなるのは今夜か明日かな」という容態でした。私が当直しているその夜は持ちこたえました。翌朝、院長先生が来ました。院長はその患者のカルテをじっと見ながら、考え込み、傍らの看護師に指示を出しました。「この患者、今月分の頭部CTをとっていないじゃないか。すぐに撮るように」です。その患者には多発性脳梗塞の診断もついていましたので、一定周期で頭部CTを健康保険でとることができます。今日にも死亡するであろうと思われる患者に、「保険点数上、請求できるのだから、すぐに頭部CTを撮影しろ」の趣旨です。
ある病院の近所で昼食をとってきた時のこと、隣の席の会話が耳に入りました。
「○○先生は、私が胃のバリウム検査をやってとお願いしたらすぐにやってくれるのよ。人間ドックなんていらないわ」
人間ドックの代わりに検査をしてほしいというお願いが通用しているのです。
それらはすべて過剰診療と言われます。健康保険制度を利用して、本来なら行わなくてもいい検査や治療を行うなどの診療行為のことです。
診療現場は、健康保険制度の運用最前線です。国民から広く集めた資金を運用している現場ですから、不要な出費は避けなければいけません。そのことを念頭に置いて、診療目的を果たすための最大効率性を発揮できるように、医療者側は取り組まなければいけないはずです。しかし、現実は診療現場には過剰診療が横行していたのです。たいていの医師は、それらに馴化して、悪質性を感じなくなっていました。
大学病院でも、治療のことのみを考えたら不要となる検査や治療は存在しています。研究活動のために、あるいは新人医師を育成するために必要になるのです。それらに対しては一定の寛容さは必要かもしれません。
医師会系病院に関しては、過剰診療を行わないと経営が成り立たないという問題が潜んでいます。最大効率性医療の提供で組織運営が成り立つ保険点数の設定が必要ですが、そうなっていません。または、代替の収益源を考えなければいけませんが、その発想は健康保険制度下では生まれません。

甘え切った医療体制に喝を

「健康保険制度は医師にとって、怠慢で傲慢であっても、売上を獲得できる非常に安易な収益システムになっている」
そのような実情を間近に感じて、私は健康保険制度を遂行することに正義があるのかどうか、強い疑問を感じていました。そして、
「健康保険制度下の医療はマニュアル化されていて、先輩、後輩、同輩たちが同じようにやっていける。たった一度の人生を、皆と同じことをして過ごすのは本意ではない」
という思いが湧いていました。
そんな矢先に、積極的予防医療の発想の発端となるアスピリンの衝撃がありました。
「病気にならないようにする医療を確立し、その精度を高めていかなければいけない」
病気の治療現場を見れば見るほど、そのような決意は高まったものです。しかし、この医療に健康保険は使えません。
すべての先輩は、内科医が健康保険を捨ててやっていけるはずがない、とアドバイスしてくれました。しかし、そんなことはまったく眼中に入りませんでした。
将来は、この健康保険制度に甘えきった医療体制に喝を入れられる発言をしなければいけない。そのためには、自分自身がその恩恵に浴した立場になってはいけない。
たいして悩むことなく、あっさりと健康保険を捨ててスタートしたのです。収益上の採算の見込みはまったくないままにスタートしたのですから、無謀なことをしたものです。多くの俗的発想しか持てない人が、「自由診療の方が儲かると思ったのだろう」と誤解していますが、まったくの邪推であり、錯覚です。

その後に、「病気でない人」と多くの接点やコミュニケーションを取る中で、次々と新しい医療のヒントをもらい、それを深める研究を行い、新しい医療を築いていくことができたのは、無謀な背水の陣を敷いたおかげである、と思っています。

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