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月刊メディカルサロン「診断」

甘ったれ国家・日本掲載日2022年7月31日
月刊メディカルサロン8月号

この日本、何かがおかしい。
悪いことを企まず、勤務時間にまじめにきっちり仕事をして任務を果たしているのに、安定した生活ができない人が増えています。本来、どんな職種にあってもまじめに仕事しているのであれば、生活は安定して当然であり、それは国家が保障しなければいけないのです。しかし、それができていません。
資本主義の自然メカニズムが働かず、総理が企業経営者に「従業員の賃金を上げてほしい」とお願いする体たらくに陥っています。世界の情勢を見ていると、先進国の中で日本だけが取り残されて孤立しているように見えます。
どうしてこのような日本になったのでしょうか?

参院選で国会議員の演説が耳に入ってきます。皆、口をそろえて「こういえば国民は喜んでくれるだろう」と思える話を発想してしゃべっています。国民を甘やかせる話をすれば、国民は喜んでくれて票をもらえると思っているのです。「戦争反対、軍備不要」と語る者までいて、それを聞くごとに「甘ったれるな!!」という気分になります。戦争反対は当然としても、軍備不要というのは甘ったれ根性の最たるものです。

業本主義、民本主義

日本の資本主義は、まず政府が企業(業)を守ることを第一としています。そして、その企業の先端に国民を配置しています。企業本位で政策を進め、その企業に対して「従業員を解雇してはいけない」という仕組みを設けています。コロナ禍において、企業に持続化給付金を設定して、従業員を解雇しないようにしたのがその政策の典型です。資本主義の実践にはいくつかの方針がありますが、政治が、企業本位にするのを「業本主義」、国民本位にするのを「民本主義」と私は名付けたいと思っています。資金の給付があった時に、国家が企業に給付することをメインにすれば業本主義、国民に給付するのをメインとすれば民本主義です。

企業の従業員の立場で考えてみましょう。「いつ解雇されるかわからない」という緊張感があれば、自己の技量を向上させ、自己の精神力を涵養し、一致団結して会社を守ろうという意欲が湧いてきます。「解雇されない」となれば、甘えが蔓延します。
経済状態が悪くなると、企業は当然必要な人員だけを残して、解雇を進めるべきだということになります。不要になった人員がいなくなると、会社は維持存続され、次の成長への地盤固めとなります。
その資本主義システムの中で、解雇された人員を守るのが国家の務めです。守らなければいけない人員が増えないように、企業に「解雇するな」と命じるのが国家の務めではありません。
解雇されて失職している人、就業していない人を守るために、失業給付金、生活保護、年金という仕組みを充実させることは国家の務めです。しかし、そこでの出費を避けたいがために、本来あるべきでない制度を設けています。国家は甘ったれてはいけません。
なお、蛇足ながら、この分野において、私はベーシックインカムが優れていると思っています。死亡時に遺産があれば、その遺産からベーシックインカムで給付した金銭を回収する制度を含むベーシックインカムです。

結局は、国家が主導して、国民を甘やかしているのです。

民を守り、業に厳しくあれ

お役人は、民間の事業人をどんぐりの背比べにしてしまいたいという本能を持っています。そうすれば役人の身は安泰だからです。民間からスーパーエースが現れると、自分たちの身が危うくなります。だから、「創業家をつぶす」という作戦を過去には実際に展開しました。お役人は、自己保身のために国家の進路を誤らせてはいけません。民間からスーパーエースが現れれば現れるほど、国家は強くなるのです。民間から出現するスーパーエースを妬み、排除しても構わないと思うなど、国家に対する甘え以外の何ものでもありません。

政治が企業(業)を保護していれば、何かの還流があると思っているのでしょうか? かつては護送船団方式といわれた政官業一体となっての経済成長システムの甘やかし状態で広がってしまった経済状態に対して、未だに業を守りたい本能があるために、監視監督を強めるだけで根本的な改革ができていません。
例えば、住宅ローンにおいて、借入者が金融機関に返済ができなくなった場合は、担保物件となっている当該不動産を明け渡せばいいだけということにするのです。その際に「残余借入金は返済不要」などのノンリコースローンを義務付けて、国民の生活を守り、業に対して厳しくあるべきです。業は厳しい状態になればなるほど、経営陣の能力が研ぎ澄まされ、会社組織は強くなります。経営者が「従業員を解雇できないのだからやむを得ない」などという言い訳を腹の奥に秘めている限り、甘ったれからの脱出はできません。

男と女、そして教育

若い男性は、社会制度の抑制に圧されて惰弱になっています。それに対し女性は、何も恐れぬ精神力を蓄え、意欲高く出世を夢見るものが多くなっています。その若者たちの間では、男女平等が語られて以来、男女が会合する食事会があっても代金を割り勘にするのが普通の文化になっているようです。男女平等が語られていても、女性には美容代がかかります。男性よりも生活の基礎出費が多く、男女が同じ収入なら、自動的に女性の生活は苦しくなります。だから、一緒に食事した時の食事代くらいは、男性が払ってあげるのが当然だと思わなければいけません。そもそも社会で活躍する女性が多く現れていますが、その女性たちは別として、一般の男女の世界では、男性は誰よりも仕事で頑張って多くの収入を得て、女性を守ってあげなければいけないのです。男性がプライドを放棄し過ぎています。
国家が国民に甘ったれ根性をばらまいていますが、だからと言って、若い男性達は甘ったれてはいけません。

教育産業界の甘ったれぶりもひどいものです。大学生は、知性を深め、身体を鍛え、成功人生を目指す正義の心得を身につけることが任務です。それを実現する上で、東京に住む必要はありません。教育体制を工夫して、地方創生をさせる方法などいくらでもあります。東京の大学のほとんどを地方移転させてしまえば、あるいは、核心の学部だけを東京に置き、それ以外の学部を地方に移転させてしまえば、その地方で下宿する学生が大量に出現し、需要が高まり、バイトが増え、経済循環が生まれ、その地方都市を活性化させます。

学校法人には、生徒一人あたりいくらと定めた多額の補助金が政府から給付されていますが、教師の雇用の維持と、理事たちに還流される取引先への出費だけに終始しており、より優れた教育システム作りには費消されていません。
「学校法人よ、教師たちよ、甘ったれるな」です。
学校法人に配っていた補助金を生徒に直接給付して、その代わり学費を上げれば甘えはなくなり、教育システムは向上します。

カギは「意欲の向上」

ところで、「若返りたい」と願う人がいます。何を若返らせたいのでしょうか。
容姿を若返らせたい、という人は多いと思います。同時に、体力の若返りを願う人もいます。ある程度の年齢になると、それらはどうしても衰えていきますので、「若返る」というよりも「維持する」ことに注力することになります。そんな中で、実際に若返らせることが可能なものがあります。それは何でしょうか?

それは「意欲」です。意欲は何歳になっても回復させることができるのです。加齢に伴い、何をするにしても「億劫になる。活動性が低下する」という現象が発生しますが、それが意欲の衰えです。だから人々の意欲を高めてあげ、「やる気満々になる。億劫でなくなる。朝から元気で楽しい。くよくよしなくなる」にしてあげることは、健康管理学上の重要な課題になります。一人ひとりと真正面から向き合って、生活の内容、生活の喜び、生活の苦しみを聞き取っている私には、気力意欲を高めてあげ、充実した人生を送らせてあげることこそが健康管理指導の最重要テーマにも思えてきます(そういう背景があり、私は成長ホルモンの利用価値を追求しています)。
国家は、国民の意欲向上に気を遣わなければいけないのです。

このように考えると、先進国の中で、なぜか取り残された気がする日本の改革の急所が見えるような気がします。しかし、参院選の立候補者たちは、大政党をバックに背負っている者ほど「努力しなくていいよ、頑張らなくていいよ。それでも生きていける国にしますよ」という国民を甘ったれさせる発言をしています。国民の努力意欲、向上意欲を高める発言が見られません。この日本、誰かが早く改革しなければいけません。
甘ったれの中からは堕落が生まれるだけで、競争心、向上心は生まれません。せっかく向上の本能を持つ人でも、いつの間にかその意欲を失っていくだけです。

経済が円熟するとなぜか甘えが出てきます。豊かになった宿命です。すると甘ったれ人間がはびこります。一度甘ったれた人を厳しくするのは難しいのですが、資本主義経済の本来のメカニズムはよくできたもので、ほぼ10年周期で世界的な不景気がやってきます。それごとに、人心が一新され、新しいステージに進んでいきます。政府はその天然自然の資本主義システムを利用して、不景気ごとに人心を一新させ、次の成長への礎とする方策を採用しなければいけません。欧米先進諸国はそうなっているように見えます。

しかし、日本はさらに国民を甘ったれさせる方向に走ります。「失業者が現れないようにする」ための政策を展開してきたからです。「失業者を失業給付で救う」という政策を避けるために、解雇するな、という方針にしたのです。その結果、企業の構成員の意欲、向上心が低下し、企業魂が堕落したのです。

急施! 甘ったれを打破せよ

官僚は民に対しては公僕のはずですが、業に対してはマウントしている支配者のつもりでいます。支配気分を満喫するには、業に配っていた方が偉そうにできて好都合なのです。政治家は、民に配ればそれだけのことになりますが、業に配れば、自己政党への還流と選挙の際の団体単位の推薦をもらえて集票になります。その政治家と官僚の思惑が相まって、国家予算の使い方が民ではなく業に向かってしまいます。業本主義を貫き、民本主義の考え方がなかったからです。

企業への持続化給付金、雇用調整助成金はすぐに決まるのに、国民全員への給付金が決まらないのはそのためです。その理由を、お役所が国民全員に給付を容易にできるほどのデジタル化が進んでいないからなどと言ったりするのであれば、甘ったれの極致です。

その背景には、国民に直接配ると国民を甘やかすことになる、という大錯覚が潜んでいます。それはまったく逆で、「業に配って解雇するな」としてしまえば、国民は大いに甘ったれ路線を歩むのです。不要人員を積極的に解雇しなさい。解雇された失業者の生活は国家が守る」という方針にすれば、国民の努力や向上の心は高まり、企業の精鋭化が進むのです。そして、当たり前のように努力する者の賃金は増加します。
教育のやり直しや再教育の重要性が語られることがあります。しかし、教育は何を与えたかではなく、自ら何を欲したかが重要ですので、欲する本能を国民の中に目覚めさせなければいけません。

日本は業本主義を貫いた結果として、甘ったれ国家になりました。民本主義にする道により、競争の心、甘ったれの打破を目指さなければいけません。
その急所となるキーワードは、「解雇の容易化」「ベーシックインカムの導入」、そして「年金、失業給付、生活保護の廃止」ではないかという気がするのです。

追記
この原稿を書き終えた後に安倍元総理の悲報が伝わりました。
警護員の「甘ったれ」がもたらした悲劇です。上から下まで総甘ったれの国家体制、何とかしたいものです。

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