HOME > エッセイ集 > 独立起業と人材糾合

月刊メディカルサロン「診断」

独立起業と人材糾合掲載日2023年8月28日
月刊メディカルサロン9月号

いつの世も企業は人によって成り立つ

ビズリーチ、エン転職、デューダ・・・。人材募集系の広告は、テレビコマーシャルだけでなく、タクシーの中、電車の吊り広告、雑誌広告など、何かしら目に飛び込んできます。
「求められる人を♪♪・・・求める人へ♪♪」
という昔のコマーシャルソング(?)が耳にこだまします。
会社や法人というのは、何かの事業目的を持った人間集団です。人の過不足なく、適材適所で最大効率性をもって人が活かされている人間集団作りを理想にして、経営者や人事担当者は頑張っています。
しかし、その理想が達成されることはなく、「人材が離れやすく、常に人材募集を行わなければいけない組織」「良きにつけ悪しきにつけ、常に人材を刷新せざるを得ない組織」「大勢の新卒社員が入ってくるので、常に古い社員を減らしていかなければいけない組織」「社会変動に応じて、大減員しなければいけない組織」が普通の組織の姿です。
だから、人材募集系の宣伝広告は、巷にあふれるのでしょう。
「金融」に対して、「人融」という語が流行った時代もありましたし、人材を分類するのに「人財、人材、人在、人罪」という語が流行った時代もありました。今も新しい用語や人材流動を促すためのセールストーク、キャッチコピーが生まれては消えていきます。

三英傑の人材糾合術

そんな人材募集の宣伝や広告を見るたびに、私は愛読した歴史書を思い起こします。歴史上の人物がどのようにして配下の人員を糾合したかに思いを馳せ、人材糾合術というものを考え込んでしまうのです。
織田信長は、津島での放蕩時代に悪ガキたちと語り合い、おそらくブン殴り合いをしながら子分を増やし、ガキ大将として振舞い、その時に糾合した700人を自己の親衛隊に編成して、世に飛び出しました。父の部下達である古参人員のことはあまり信用しておらず、古参たちには「俺に従うなら絶対服従してついてこい。従うのが嫌なら消え去れ。消え去るのが嫌ならぶっ殺してやる」の心得で、尾張を統一したように思います。信長の人材糾合術の基本は、その辺です。
それに対して、徳川家康はまるで異なっていただろうと思います。家康の父、祖父は、部下に殺されています。殺した部下は主君の組織を乗っ取ろうとしたのではなく、単に恨みを抱いて殺しただけでした。だから、殺された父の息子が後を継いでいます。家康の心の中には、「部下であっても心が離れてしまうと、あるいは恨まれるようなことをすると、その部下は自分を殺してしまう」という幼少期のトラウマが存在したはずです。
だから、父譲りの部下には非常に丁寧に接したであろうと推察されます。この丁寧な気持ちで接した部下たちが、三河家臣団として家康を盛り立てました。丁寧さへの恩返しの気持ちが、三河家臣団の心中にはあったのだろうと思います。そして、武田家を滅ぼした時に旧武田家臣を取り込んで徳川家は肥大化しました。武田家の旧家臣団にも家康は丁寧に接したのでしょう。その家臣たちが、江戸時代の譜代大名になっているのです。
信長と家康の人材術は、まさに正反対だったように思います。
豊臣秀吉は、信長の配下として徐々に取り立てられ、自己の収入が増えるごとに、自己の親族や妻の親族に声をかけ、部下を増やしていきました。家柄ゼロの若き日の秀吉に仕えようと思う人は滅多にいなかったはずですが、地道に集めることができたのは、秀吉はやはり何か特殊な人材術を持っていたのでしょう。南近江の浅井氏の旧領を拝領した際に、その人材術は活かされ、後の豊臣政権の政治中枢を担う人材が糾合されました。
織田信長に中国攻めを命じられた際に、黒田官兵衛が取りまとめたはずの播磨国に乗り込んだ際の何かの出来事で、三木城の別所氏の離反を招きました。その「何かの出来事」の経験が、後に天下取りを成功させた究極の人材術醸成へとつながったと私は推測しています。快活に振る舞い、相手の心にすり寄り寄り添って「まあ、何とかしてくださいや。何とか頼みますわ」的な術であったような気はしますが、私が想像できるようなちっぽけなものではなかったでしょう。
秀吉の人材術は、まだまだ研究しなければいけないと思っています。

三国時代における人材糾合術

三国志は私の得意の愛読書です。
後漢末の動乱期に乗り出した曹操(後に魏を建国)は、宦官として勢力をふるった曹騰、曹嵩の子(養子)で実家にかなりの財力がありました。その財力で一族を糾合して、挙兵しています。紆余曲折を経て、董卓死後の混乱の中で漢の帝を迎え入れることに成功しました。帝を頂点に抱いて、漢の職制(三公九卿など)を利用する中で、人材を増やし、自己の勢力を伸ばしました。まだ、戦乱に明け暮れる途上で、曹操は「求賢令」を出しています。
求賢令とは、「才能があれば私の元に集まりなさい。日頃の素行の悪さや過去のちょっとした悪事は問わない。才能さえあればあなたを重用する」というものでした。曹操の心の内には、「人の長所を寄せ集めて組織は作るものなのだ」という強い意志があったのだと思います。その背景には、新しい部下を採用するにあたって古い部下たちは、その新人の短所をあげつらって、「あいつはこういうところがあるからダメだ」と曹操に吹き込もうとする現実があったのでしょう。新人が重用されると古い部下たちは面白くありません。それを見越してかそれに辟易したからかはわかりませんが、とにかく上記の趣意の「求賢令」を発しています。その方針による人材糾合により中国の統一を進めたのです。
劉備は、中国北東部の幽州で傭兵隊の旗揚げをしました。左右に関羽、張飛の豪傑をしたがえたが知られており、面白い物語を形成しています。傭兵隊ですので、財力的基盤を持っていません。どこかの大勢力に雇われて、食料、軍需物資、金銭相当物を与えられて戦いに参加するという日々を送っていたはずです。戦いを求めて中国を流浪する軍団です。ふと、ウクライナ戦争におけるワグネル傭兵隊のブリゴジン氏を連想します。
劉備は、流浪途上で部下を増やしました。集ったのは精鋭です。財力基盤を持たず、諸国を流浪する劉備の元に参画するのは皆不安だったはずですが、劉備は強い求心力を発揮しました。やがて、荊州の劉表に迎え入れられ、曹操勢力と接する荊州北部に地盤を与えられ、ここを拠点にして諸葛亮孔明を「三顧の礼」で配下に加え、天下取りに乗り出しました。流浪中でも人材を糾合できたのですから、地盤を築いて益州に乗り込んだ頃には多くの人材が集まってきたことでしょう。
後世の豊臣秀吉と似通った何かがあったのかもしれません。一対一で接した時に相手の心を一気に引き寄せる術を持っていたのです。
呉の国はもっと面白いのですが、紙面の都合で割愛します。

おわりに

今の時代でも、独立して何かの事業を起こして人間集団を築きながら成功していく人は、その人独自の人材糾合術を持っています。世間で目立っている「人材募集の○○社」をあてにしません。
人材糾合に成功することが組織作りの急所ですから、独立起業しようとする人は、「人材募集の会社に依頼すれば人材なんていくらでも集まるはずだ」などと甘く考えてはいけないのです。
創業30年を迎えた私の事業においても、媒体で募集して迎え入れた人材は一人も残っていません(2008年の事件を共に乗り越えたスタッフは、媒体募集とは思っていません)。
誰もが入社したがる大企業やその大企業が子会社を作った時だけが、人材募集媒体の役立ちどころなのです。
人心を集め、強い求心力を発揮できない人は、独立起業にあたって慎重になってほしいものです。逆にそれができる人には、大きな投資価値があるのです。

エッセイ一覧に戻る