月刊メディカルサロン「診断」
家族形態革命・・・女系家族形成への必然性月刊メディカルサロン2010年1.2月号
核家族化が生み出したもの
戦後60年で「大家族から核家族へ」という家族形態の変貌があったのは間違いありません。医療技術の進歩も重なり、「脳梗塞を起しても死なない」「食べられなくなっても死なない」という中で、この変貌は介護問題という社会問題を生み出しました。また、核家族であるがゆえに、「保育園不足」などの子育て上の問題も生まれました。
大家族の基本原理は、婚姻が家と家のつながりであり、ある家族の娘が別の家族の息子に嫁いでいく、というものです。そして、嫁いだ娘は相手の家族と同化し、子供を生み育て、三代、四代にまたがって同居し、嫁ぎ先の家業の範囲を逸脱することはありません。この様態においては、介護の問題や子育ての問題は起こり得ません。
しかし、時代は変わりました。政府やマスコミが後押ししたこともあり、家族形態としては、核家族化が急速に進みました。「親と子(主として未成年の子)」の単位だけが、周辺血族のつながりから切り離されて生活を営むようになったのです。
この単位の生活では、生活における資金繰り効率が悪くなるので、家計を維持する為に共働きが必要になります。そのことから、保育園不足などの子育て問題が生じ、また一方で老父母が孤立し、介護問題が生じました。
つまり、昨今重大視されている子育てや介護の問題は、核家族化が進行してしまった結果論ということなのです。
事前予測はできていましたが、誰も警告しませんでした。警告さえなかったのですから、出現した社会問題(子育て、介護)に対して、責任を感じるのか、あるいは恥に思っているのか、それともいまだに気づいていないのか、よくわかりませんが、介護保険や子供手当て、保育園建設などの対症療法しか講じられておらず、政策的に「核家族化の進行を止める」という根治療法が語られることはありません。
「男の子か女の子、どちらが欲しい?」
とはいえ、今さら「核家族化をやめて、大家族化しよう」などと叫んでもまったく通用しないのは明らかです。どんなに貧困が進行しても、大家族化を望む人は稀であると思われます。何と言っても、大きな家が都心部にありません。便利に慣れた都会人が地方に戻っておとなしくすることも至難です。となると、子育てや介護の問題は、今後も増幅されていく一方なのでしょうか?
しかし、そうでないことに私は気づきました。これらの社会問題は、核家族の意識がさらに進歩してくれれば自然に解決されるかもしれない、ということに気づいたのです。
最近の女性に、「子供を生むなら、男と女、どちらか欲しい?」と尋ねると、大抵「女が欲しい」と答えます。それこそが、解決の糸口なのです。家族を作るときの意識革命を起こすことが解決の糸口となっていくのです。
婚姻した男女とその親の心理
現状の核家族の潜在心理を分析してみましょう。「嫁入りする」と表現されるように、核家族なのに、女が男の生活圏に組み込まれる仕組みが維持されています。婚姻により、ほとんどの女性の姓が、男性の姓に代わることがそれを物語っています。親は、「娘を嫁に出したら、一仕事終えた」という気持ちになったり、また、別れの気分になったりします。息子に嫁を迎えたら、その嫁は息子(夫)の両親の支配下にあるような気分が残り、そして、その新しい夫婦の間に男の子が生まれたら、その子供は、父(夫側)の家族のモノであり、夫側の家系を継ぐものという認識になっています。この傾向は、都会部では薄れてきましたが、地方に行けば顕著です。
つまり、紛争の解決を暴力的手法で行わざるを得ないケースがあった時代、すなわち男が主体者とならざるを得ないケースが多かった時代における大家族構成の家族観の意識が、全く異なる家族形成である核家族化時代になっても、まだまだ残存しているということなのです。核家族は、妻と夫がフィフティ・フィフティであるべきなのに、男系家族社会の名残として、男側の妙な意識が残っており、核家族化しても妻が男側の家族に組み込まれたような意識になっているのです。
核家族化と社会問題の増幅
実は、この意識が子育て問題と介護問題を増幅させているのです。夫婦の間で生まれた子供が、夫側の子であるように錯覚しています。
このことを夫側の両親の立場で考えてみましょう。核家族化している限り、別の家で生活している息子に嫁いできた嫁の子供の子育てを手伝いたいという意識は希薄です。夫側の両親は子供に対する所有意識はあるのに、「やや面倒な子育て」に対しては、「嫁の責任でやりなさい」と突き放したくなります。同時に、もともと別居していた息子に嫁いだ嫁であり、自己の支配下の気分になっている嫁に、自分の身体機能が衰えたときの面倒をみて欲しいとは思いません。ここに社会問題の根源があるのです。
新家族構成の基本原理
「嫁入りする」という表現を放棄して、婚姻した後も娘とその両親がしっかりと結びついた状態を想像してみてください。その娘が婚姻しても、「嫁に出した」とは意識せず、嫁と実の両親との間にしっかりと強い関係を残しておきます。その娘に出来た子供に対して、両親は子育てを手伝ってあげたいという意識を呼び起こすことができ、そして、将来、実の娘になら介護されても苦痛にならないのです。
両親と娘がしっかりと結びつき、その娘の夫はその結びつきの周辺をブンブンと飛び回る働き蜂に過ぎないというイメージを持ってみましょう。これは、婿入りするということではなく、あくまで基本は核家族です。妻の両親とは別居しているので、妻は夫との生活拠点と両親の生活拠点を行ったり来たりすることになります。昔は、夫に愛想を尽かしたときに「実家に帰らせていただきます」といいましたが、自宅と実家と行き来することがごく普通の日常行動になります。
子供が出来てしまえば、夫の役割は生活資金を稼ぎ、妻とその両親の組み合わせに提供することが第一になります。これは男側の絶対的義務です。もちろん、妻は夫と夫婦生活を営むという基本を崩してはいけません。子供は、妻とその両親に育てられるので、保育園不足を悩むことはなくなります。
生まれた子供が男の子ならこの先の人生の進路は自由であり、父方の家業を継ぐも良し、母方の家業を継ぐも良し、独立するも良し、「人に使われる人」として生涯生きていくも良しです。親としては、男の子は基本的にそのうち飛んでいなくなるものと覚悟しなければいけません。女の子なら、親の傍から離さず、将来いい男を捕まえてきてくれるのを待つことになります。実は、こうすると日本の農村問題の解決にもつながってきます。
妻の両親が老いて介護が必要になったとき、妻(娘)は心理的には自然に介護に取り組むことができます。両親は苦痛なくそれを受け入れることができ、夫は妻を一時的に実家に帰してあげる度量をもたなければいけません。
つまり、このように核家族化された社会においては、意識の上で男系による家族構成ではなく、女系による家族構成をめざせば諸問題は解決していくのです。
「核家族の単位を妻側の両親寄りにする」という方向性を得た社会では、男の役割は築いた家族に対し「命を懸けて資金源になる」に徹することになります。仮に離婚しても資金の提供は絶対的義務として残りますし、資金不足に陥ったら切腹して生命保険金で補償しなければいけません。あるいは、妻側の実家に家業や財力がある場合は、夫は優れた労働力として貢献しなければなりません。「カマキリの社会」を連想してしまいます。
なお、「離婚しても」と述べましたが、この家族形態は、もともと「入籍」という一事にこだわらない方が優れています。入籍という手続き行為よりも、「命を懸けて資金源になる」という絶対的約束の方が重要です。
もちろん全家族がそうあるべきだといっているわけではありません。伝統ある家系(代表は天皇家)や、娘と両親が不仲である家族は不可能でしょう。また、両親の家業を継ぐことになっている男性もこの形式は難しいかもしれません。あくまで、家族形態のあり方を認識する上で女系家族構成というものを取り入れれば、社会問題が解決しやすくなりますよ、という話です。
政策的支援のあり方
政策的にそれを支援するのは簡単です。公的介護が必要な親に対し、娘(息子でももちろん可能)または嫁が介護にあたって公的介護を不要としたとき、公的介護で要すると想定される費用と同等の介護手当てを子供に対して設定するのです。また、両親が娘の子供(つまり孫)に対し、子育てを手伝い保育園に行かせる必要がないのであれば、その両親に何かの公的な子育て援助手当てを提供するのです。
「家族の間だから、無料でいいでしょ」という因習を政策的に打破することが重要なキーになります。家族だからこそちょっとした有料化を図ることにより、諸事うまくいくのです。そうすると、徐々に両親とその娘のセットアップが完成し、女系寄りの核家族形成に向かうことになります。
また、相続制度に一工夫加えることでも、女系寄り家族構成を推進することができます。当然、夫婦別姓問題も大いに検討の余地ありです。
まとめ
女系による一族形成を主流化することが、社会のためであるかどうかは未知数です。また、男性諸氏の反発があるのも必至です。しかし、日本社会はそれを受け入れられない社会ではありません。
日本には、なんと言っても平安時代に天皇の外戚が摂関家として政治の実権を握ってきたという伝統があります。これなどは、天皇家が血縁的に男系血族でありながら、人縁的にどのような実状であったかを思い起こしてみると示唆的な答えが出てきます。