月刊メディカルサロン「診断」
政界の現状と、後漢・三国時代の比較月刊メディカルサロン2010年4月号
皆さんがよくご存知の三国志。物語化されたその時代を愛する人は多いと思います。その三国時代の始まりは、後漢の政治の乱れでした。後漢末の政権抗争が400年の大漢帝国滅亡のきっかけになったのです。以下、ざっと紹介してみます。
当時、宮廷内で皇帝の周囲に侍従して実質的な政治の実権を握っていたのは、宦官と外戚で、この二者は宮廷内で対立していました。宦官とは去勢されて後宮に仕える者達。外戚は皇帝の妻の実家筋の者達です。この時点で既に政治の腐敗の気配が窺われます。
外戚トップで大将軍の地位に就いていたのが何進(かしん)でした。その配下には、袁紹(えんしょう)、曹操(そうそう)、袁術(えんじゅつ)らの将軍がいました。一方、都から離れた地方には、地方軍閥として、公孫讃(こうそうさん)、孫堅(そうけん)、劉表(りゅうひょう)らがいました。彼らは、後の三国志を彩る人物です。
さて、地方軍閥の1人として董卓(とうたく)という者がいました。董卓は、宮廷内の内紛に付け込み、軍勢を率いて強引な手法で宦官、外戚筋を一掃しました。宦官はほぼ皆殺しの目にあい、何進配下の将軍達は地方へと散り、政治の実権は董卓の手に握られました。(董卓の政治が善政であったか、悪政であったかは不明ですが、後の董卓一派は滅んでしまったので、結果的に悪政だったことにされて物語は作られています)。
その後、地方に散った何進配下の将軍達が地方軍閥となり、反董卓連合軍を組み、董卓軍に戦いを挑むと、董卓軍は皇帝を連れて西方に退避しました。
董卓を追いやった後、反董卓連合軍は各個ばらばらの独立軍となり乱世へと展開、この独立軍が成長、滅亡、糾合を繰り返し、最終的に、曹操、孫権(そうけん)、劉備(りゅうび)の魏、呉、蜀の3つの国へと収束されたのでした。
以上の後漢末から三国時代への展開は、今の日本の政治状況と酷似しているような気がしてなりません。
外戚と宦官の集合体はまさに自民党です。内紛を繰り返した結果、董卓軍とも比される小沢一郎軍に一掃されてしまいました。一掃された自民党が分裂してミニ政党ができていく様は、何進配下の将軍達が独立して地方軍閥化していく姿に似ています。
また、軍事独裁的で強引な董卓軍の手法と、子供手当や専業農家の個別所得補償などを財源未確定状態で主張した小沢軍の手法も似ていますし、軍事力を恃んで外聞を意に介さない董卓軍の政治姿勢と、議員の数を恃んで政治資金問題を取り沙汰させない小沢軍の政治姿勢も酷似しています。
さて、地方軍閥の中では曹操が抜け出しました。物語では、曹操は兵糧が欠乏し、常に軍の維持に困ってはいたものの、戦略眼、用兵の巧みさ、人材活用のうまさで天下統一路線を歩んだように描かれています。しかし、私はその点に関しては物語に過ぎないと思っています。曹操は屯田制を成功させ、食料調達力に優れ、卓越した資金力をもっていたので、優れた人材が多く集まったと考えて間違いありません。つまり、曹操は屯田制を採用し、強力な資金力を得たから天下統一に向かえたのです(余談ですが、この曹操は董卓の配下に一時的に組み込まれましたが、すぐに反旗を翻して独立し反董卓連合軍結成の旗振り役になっています。(注)民主党の誰かをあおっているわけではありません)。
「資金力へのこだわり」といえば、何かを連想します。人材に対して自己への求心力を発揮するために、「資金力が優れているという態が必要となる」のは、これも今の政治の裏姿に酷似しています。「新党結成」といっても、ある議員がその新党に合流するかどうかを決心する最終判定材料は、ボス相当者の資金力になってしまうのが実情です。
結局、一つの秩序が崩壊して新しい秩序ができていく様子は、歴史上の実例と同じような展開をしていると考えていいようです。民主党が結果的に善政であるなら、三国志とは異なる展開。結果的に悪政であったなら、董卓軍に相当しますので、三国志のような展開になることが予想されます。その場合、曹操、劉備、孫権に相当するのは誰になるのでしょうか?
今の社会の姿を歴史と比較するのは楽しいものです。