月刊メディカルサロン「診断」
医療構造改革と国家の未来像と髀肉の嘆月刊メディカルサロン2011年5月号
「自己の人生を通じて、この世のために何を成し遂げるか」を考えたときに、私はその答えを「医療構造改革」においています。
その医療構造改革を実現した結果、日本という国が「この国に生まれたからには、自己の身体のことに関しての悩みや不安を持つことなく、生涯を仕事と趣味にまい進できる」と人々から感激されるような国家になることを望んでいるのです。
医療に従事する者は皆、同じ望みを持っていると思います。そして、それを実現するための手法を論じ合っていることでしょう。日本医師会は、それを実現するための手法として、「国民皆保険堅持。あらゆる治療を保険枠内で」を主張しています。しかし、私はそれに異論を唱えています。
「病気になったときに国民全員が公平に安価に治療を受けられるようにする」というのが国民皆保険の原点的目標です。それは病気の治療において、高度経済成長期の日本においても大きな役割を果たし、世界的にも比類なく優れたシステムになったと私も認めています。しかし、これには現役世代の負担増、費用効率性、そして実は公平性欠損という問題が内在しています。
現役世代の負担増という問題には、人口構成の問題が根底にあります。成長経済から飽和経済となっている日本においては、高齢者のために一定の負担を背負わされることが、未来に夢を追い、志を立てていこうとする若者にとっては、それだけで大きな意欲を挫く原因となっています。高齢者を助けて自分達が苦しむというありえない社会構造をかもし出しています。莫大な治療費を要していながら、自己負担が少なくて済んでいる高齢者の裏側には、大勢の若者の苦しみが潜んでいるのです。
費用効率性の問題というのは、「助からない」と分かっている病気に対しても多額の治療費をかけることや、自己責任に帰する病的状態に対しても莫大な治療費をかけていること、そして、自己負担が少ないことを踏み台として巧みに仕組まれた過剰診療問題が内在していることなどを意味します。
そして、公平性欠如の問題としては、人口密集地域における医療と過疎地域における医療では、1人当たりに要する医療費に雲泥の差が生まれていることや、病気の治療が少なくてすむ20歳代と病気治療が増えてきた壮年者において、所得に対して同じ割合で負担させているということが挙げられます。
そこで私は、国民皆保険は国民に提供できる医療サービスの一部に過ぎないという観点を含んだ医療構造改革を主張しています。つまり、国民皆保険制度は一部のシステム(費用徴収のあり方など)を除いて、全医療サービスの一部に過ぎないと割り切り、それをたたき台として包含した上でさらなる医療サービスの拡充に努めるべきだということです。その骨子は、
- 国家直轄の医師団の創設とその人員を活用した救急医療体制と災害医療体制の確立(利用無料)
- プライベートドクターシステム型のへき地医療改革(一部自由診療)
- 「手術でとりきる」治療以外のがん治療の民間保険導入(自己の意思で加入、非加入を決められる)
- 医療制度の教育を含む健康教育の拡充とそれに伴う予防医療分野の健康保険適応除外
- 健康保険適応を狭めた結果として、軽くなった国民皆保険医療費を利用しての現役世代の不慮の健康トラブルに対する治療システム網の拡大
- 健康保険非適応分野を担当するメディカルサロン型クリニックの創設
などですが、具体的には、連載している医療構造改革論議編をご覧いただきたいと思います。
さらに、それらに加えて「身体に関する悩みや不安を持たないようにする」には死生観の問題が関与してきますので、宗教的要素が関わるところですが、医学者の発信する死生観というものも考えていかなければならないと思っています。
一方では、高齢化社会となり、人生終末期において身体機能、知的機能が衰えた人たちが大勢います。その人たちをどのようにして守っていくかに関する「国家としての未来像」も必要で、私はそれに対する解決策も見据えているつもりです。
私の理想が実現できたら、医療社会は空前の大繁栄を遂げることになります。それに対する妬み、中傷も生まれてくるかもしれません。しかし、私の医療構造改革は、従来の「現役世代から徴収して高齢世代の医療費へ」のシステムから、「医療サービスを利用して、一部の高齢者・壮年者から大勢の若者への冨の再配分」のシステムへと誘導していくことを目論んでおり、日本国家の未来のあるべき姿をしっかりと見据えているのです。
もっとも、この構造改革には既得権益集団との戦いが関与していますので、その道を突き進むのはなかなか困難で、髀肉の嘆にあけくれる毎日になっています。