月刊メディカルサロン「診断」
子育てと親孝行月刊メディカルサロン2015年3月号
子供をお荷物にしてしまったのは誰?
先日、テレビを見ていると、都内のある区で起きた「待機児童をなくすために何とかしてほしい」と訴えかける運動の様子が画面に映し出されていました。
登場しているのはほとんどが母親です。子育てパパの登場はありませんでした。育メンなどともてはやされても、やはり子育ての主体者が母親であるのは変わらないようです。
かつては、「夫一人の収入による子育て、家庭の維持は難しくなった。大変な時代だなあ」と感じ、また「価値観が多様化して、子育て中の母親が子育てだけでは心がもたなくなった。困った時代だなあ」などと思ったりしたものですが、その時は全然違う見え方がしました。
こんな苦労には耐えられない、とアピールする姿からは、「子供がお荷物になっているのだなあ」という思いしか伝わってきませんでした。もともと子供というのは、母親にとっては、「この世に、思い通りにならないものがある」ということを教えてくれるはずのものです。しかし、そんな教えに耐えるつもりはなさそうです。
重荷、邪魔者扱いされている子供がかわいそうに見えてきました。子供の立場では、「生まれてきてごめんね」になってしまいます。生活の中で重荷になっている子供の存在を、待機児童を解消できない政府の責任であると、理解困難な解釈にすげ替えているにすぎません。浅慮でいいなら、政府の取り組みが不十分だから待機児童がいるのだということになりますが、事の本質はそんなものではないようです。
なぜ未来の夢につながらないのか
子供が欲しいというのは、社会問題とは関係なく、動物的な本能です。少子高齢化だから、子供を産んで育てようという政府の掛け声以前の問題で、ヒトが生まれながらにして持っている種保存の本能なのです。
その本能に基づいて、子供は世に生まれ出ますが、いったんこの世に現れたら、親は強烈な責任を背負わされます。道徳に基づく責任のみならず、法律上の責任まで背負うことになるのです。夫婦にとって、どうしようもない重荷になっているのでしょう。
今の苦労を耐えられるのは、未来の夢があるからですが、そのテレビのシーンでは、未来の夢もないのに子育てしているのだ、というイメージが伝わりました。
「子供の存在が未来の夢につながっていない。今の重荷にすぎない。なぜだろう」
私の本能は、そこに焦点をあてることになります。
現代の子育てを取り巻く悩ましい問題
他の動物と違い、人類はさまざまな面白い喜び物を手に入れました。素敵な洋服、おいしい料理、くつろぎのある空間、刺激的な場面の鑑賞・・・。そして、「見栄を張る」という自己満足、他人の不幸を喜ぶ甘蜜感、文句を言う快感。それらをまとめて価値観の多様化というようですが、「心が欲するもの」がどんどん大きくなっています。
欲するものを満たすにはお金が必要です。そのお金が不十分なのに、子供を産んでしまうのは、幸福の始まりでしょうか?不幸の始まりでしょうか?
子育てにはお金がかかります。また、子育てには時間も奪われるので、お金を稼ぐ時間も制限されます。今や、子供を産んで育てるという人類の当然の本能が、とんでもない贅沢活動になっているのです。
貧困の中を苦労してでも子育てができるのであれば、夫婦一方の収入と政府の支援で子育ては可能ですから、何の問題もありません。可能以上の何かを求めるのが人間というものだから、心の苦労との戦いになるのです。
子育て支援を増強すればいいではないか、という声が聞こえるかもしれません。一方で子供が欲しいのにできないという夫婦もいます。当然、子育て中の夫婦に対して、言葉にできない思いを抱いています。
また、今の高齢者は、貧困の中を子育てしてきた人たちです。今の成人、つまり自分たちが生んで苦労して育てた子供たちが生存している国家なのだから、まずは自分たちに還元して欲しいという思いがあります。この人たちが、選挙においては主たる投票集団であるのは間違いありません。
まとめると、政府が持つ一定の金銭を子育て支援のやたらな増強に充てるわけにもいかないということです。
「孝は親のためならず」
未来に夢があれば、今の苦労を耐えられる。これは、人類の絶対法則です。子供の存在が自分の未来に大きな夢をもたらしてくれるのなら、今の苦労には耐えられます。
子育てしている親は、将来、子供が自分に大きな夢=リターンを与えてくれると思っているのでしょうか?このことに関して、親がどのように思っているかを察するのは簡単です。
子育て中のその親が、自分の両親に対してどのように振る舞っているかを見ればいいのです。自分を育ててくれた親に孝を尽くしているのなら、自分の子供もそれを見習うであろうし、自分が親不孝しているのなら、育てている子供も親不孝するであろうと子育て中の両親は予感しているはずです。その予感こそ夢の有無と直結するのです。