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月刊メディカルサロン「診断」

国民皆保険で育まれた過剰診療は、日本の医療文化である月刊メディカルサロン2016年5月号

私はメディカルサロンの創業期から、健康保険診療の中に根付く過剰診療を非難し続けてきました。過剰な医療サービスを提供する風習の中で、その資金を負担している現役世代が困窮することになる、という論調での非難です。非難できる姿勢を堅持するために、私が運営するクリニックは健康保険を扱わないという選択をもなしてきました。
しかし、最近は、まったく異なる視点からも、日本の医療社会を見るようにしました。「過剰診療は日本の医療文化である」という視点です。日本は、温泉文化、花見文化、ひな祭り・鯉のぼりの文化、社長順送りの文化など、日本の風土の中で育まれた独自の文化を多く持っていますが、それと同じものであるという観点です。私はこの医療文化が醸成されていくことに反駁してきましたが、今回は、その辺をあえて皮肉的に語ってみたいと思います。

過剰診療とは

たとえば、本当は頭痛などないのに、「頭が痛い」と嘘をついて診察を受けたとします。医師は話を聞いて、自分の技術で診察して、「うむ、これは、あるとしても緊張性頭痛に過ぎない」と診断。「肩や後頭部の凝りから来ている」と話し、入浴や、体操、良質な睡眠のとり方、枕の形状などを指導すれば、最小限の診療です。
「お薬を出しましょう」と指示して鎮痛剤と筋肉の緊張をほぐす薬を出せば普通の診療です。
「むむ、これは、脳内に何かができている可能性がある」と脅しをかけて、「頭部のCTとMRIの検査を行ってください」といえば、過剰診療です。
閉経後の女性でコレステロールがちょっと高いからといって、薬を出せばこれは過剰診療です。閉経後の女性は、コレステロールが高くなるのは当然だからです。
ガンの末期の状態で、もはや風前の灯火の命という患者に、何十万円もする血液製剤などを投与して、数日の延命を図るのも過剰診療でしょう。
患者の訴えを聞いて、「あの可能性もある、この可能性もある、その可能性も考えられる」を大量に積み上げて、放射線を浴びせる検査をたくさん進めるのも過剰診療です。

診断するための検査の提案、治療するための薬や手術の提案。その辺はすべて医師のさじ加減で決められるのです。健康、人体、医療を勉強したことがない患者側は、その医師の指示に対して抗することはできません。
万が一、潜んでいた病気を見逃してしまっていたなら大問題になりますので、慎重になった結果、検査や治療薬を過剰に提案する風習が根付きました。患者の費用負担が大きければ、そのような風習は根付きませんが、患者の費用負担が小さいので、自然の経緯として、過剰診療への道を歩み出したのです。
「最後の最後ですけど、できる限りのことをお願いします」と頼まれたら、末期状態の患者に高額の薬代をかけてでも、数日の延命に取り組んでしまうのもやむを得ないかもしれません。一分一秒でも長く心臓が動いていてほしい、と願う家族の心情も十分に理解できます。
一方では、自己負担がない生活保護の患者が来ると、処方する薬をとても多くする医師がいますから、売り上げ確保のための過剰診療を行っている医師がいないわけではありません。
「薬を出してくれないなら、帰りません」「検査してくれないのはおかしい。納得できない」と宣言して診察室に居座るといった恐ろしい患者もたくさんいますので、過剰診療せずには、診察を次々と進められない背景があるのもやむを得ません。
健康保険制度下においては、本人の負担は一部に過ぎない上に、その自己負担の月額が高額になったときは公費で補てんしてくれるので、ついつい過剰な検査提案、治療提案をすることが、医師の中で風習化してしまいます。まさに、国民皆保険制度の中で育まれた文化といえるでしょう。

過剰診療は患者も望んでいる

過剰診療が風習化するのは、医師だけの責任ではありません。むしろ、患者の要求によるものが大きいのです。いざ、「自分が病気だ」となると、できる限り手厚く診療してほしいと思うのは当然です。日ごろから医師の過剰診療を責めている人でも、いざ自分が病気になると、過剰に提案してくれて、いろいろやってくれるのはありがたいものです。
「こんなの病気じゃない。栄養ドリンクでも飲んでおきなさい」と言われると、ホッとする人もいますが、むしろ腹立たしく思う人の方が多いのが実情です。診察室で面倒な展開にならないように、「腹立たしく思うタイプであろう」と事前推定して、医師が診療を進めるのも十分に理解できます。
人間ドックを受診するとけっこうな費用がかかるという理由から、病気のふりをして、診察室で検査をお願いする患者などは山ほどいます。健康保険の不正利用の手法を患者側もすでに知っているのです。検査することを頼まれた医師は、やむを得ず、「何かの病気の疑いあり」としてカルテに病名をつけて、検査を健康保険で行います。
「私には懇意の医師がいるから、いつでもいろんな検査をしてくれる。人間ドックなんて行く必要がないのよ」と広言する人がいるくらいですから困ったものです。
暗黙の了解があるのかないのか、医師と患者は一体となって、まさに阿吽の呼吸で、健康保険制度の不正的な、微妙な利用を進展させていきます。以上は、人間心理、本能の流れに沿っていますから、まさに自然な経過であり、育まれた文化といえるでしょう。

医療を取り巻く業者も望んでいる

医師と患者、両者のバックには、医療関連の業者が潜んでいます。製薬会社、検査機器の会社、調剤薬局などです。
新開発の薬があれば、製薬会社はできる限りその薬を処方してほしいと願います。医師には、「あの薬、ほんとに効くのかなあ」という興味、関心があります。
一方では、その薬が高額であることを知っています。しかし、従来の薬で十分と思うのではなく、その薬を使ってみようという気分にさせるひと押しを製薬会社は企んできます。

かくして、同じ病気の治療でも、常に高額のほうの薬が処方される傾向が生まれます。このこと自体が、また過剰診療の一環です。営利追求の製薬会社の本能、調査研究活動に関心を持つ医師の本能の相乗作用ですから、ごく自然な展開であり、まさに育まれた文化なのです。

過剰診療は「健康保険制度の制度疲労」

国民皆保険というのは、自然経過として、医師、患者、業者、合わせて三位一体の過剰診療推進システムになるのです。私は、それを「健康保険制度の制度疲労」と名付けました。
そんな医療社会ですから、医療費は増える一方で、ついに40兆円に至っています。内訳は、20兆円が健康保険の掛け金としての徴収、20兆円が税金からの補てんと本人負担です(本人負担は5兆円)。掛け金の負担、税金を負担している現役世代にとってはたまったものではありません。
医療費の増大に対して、政府は、保険点数の改定で対抗しようとします。たったそれだけの対抗手法しかないのが実情です。
また、過剰診療を改善するには、医師、患者、業者の三方からの厳しい自律規制が必要ですが、そんなことは望めないのが現状です。改善不可能なことにチャレンジするのは、労力が大きくなるだけです。政府は、保険審査員を定めて、「この検査は健康保険適応ではありません」というのを指導していますが、ボリューム的にも、焼け石に水にすぎません。

医療は誰の統治下にあるのか

ところで、「国にとっての軍隊」と、「国にとっての医療」というものを比較してみましょう。

軍隊の暴走が悲惨な歴史を作り上げてきたことは、周知されています。ですから、軍隊は暴走しないように文民の統制下に置くという掟があり、先進国ではそれは徹底されています。武力を持つ軍隊を完全統制するのに、どの国も相当に気を使っているのです。軍隊が独自判断で、自由に振る舞える力を持つと、国の方向性が歪んでいきます。
医療は誰の統治下におかれているのでしょうか。一応、政府の統治下におかれていますが、国民の健康という急所を人質にしていますので、政府の統治を乗り越えてしまうのは簡単です。国に対する影響の強さは、今の時代では軍隊以上と言えるかもしれません。
ただし、現状は、医師会内部が一枚岩ではなく、開業医系、研究機関系(大学病院など)、独立団体系(共済会○○病院など)に分かれていますので、医師の中からスーパーエースが現れない限りは、かろうじて、政府の統治下であるという体裁をとることができています。
いったん国民皆保険を実施してしまえば、医療は暴走したときに、それを抑制するものがありません。専門性の特質上、そして、全人民の急所である健康を差配している関係上、医療は、医師の統治下から離すことができません。厚労省が抑制しようといくら頑張っても、肝心の患者側が過剰診療を望むのですから、すぐ限界になります。軍隊が国民の支持を受けてしまっているようなものです。

医療は医師の統治下にある

国民皆保険の中で、医療が医師の統治下におかれているのは、軍隊が軍人の統治下におかれているようなものです。解決策を求めることは可能なのでしょうか?まず困難です。

そこで、いっそのこと、「過剰診療は日本の医療文化である」と割り切って宣言してしまえばいいのです。「日本の文化だ。何が悪い」と開き直って、患者を診察した医師はどこまでも、過剰な検査提案、治療提案をしていいことにします。そして、実施したすべての費用を国費で賄えばいいのです。どれほど巨額になっても意に介する必要はありません。国民が望むものを国民から徴収した金銭の再配分で満たしているのですから。国際収支が黒字である限り、国体が揺らぐことはありません。
国民に対して、はっきりと「過剰診療を日本の文化とする。その文化のおかげで、全国民は健康に関して、大安心して生きていくことができる。その代わり、費用は莫大にかかる。健康保険の掛け金徴収、消費税が増えることは、やむを得ないものと思ってほしい」と訴えかければいいのです。
その上で、「救急医療のネットワークをさらに充実させる」と言えば、反対する国民はいないかもしれません。なにせ、「健康が一番大切」と口を揃えて言えるほど、日本は豊かな国なのですから。
逆に、政権与党が「医療費を抑制するために国民皆保険を抜本的に改革する」と公約すれば、おそらく政権を失います。つまり、すでに医療費がどれほど膨大化しようとも、国民皆保険制度は崩せないのです。

医師が国政を差配する「医師政権国家」

国民皆保険を崩せない日本では、じわじわと、日本の富の大半が、医療を差配する医師の元に蓄積されます。そんなことに妬み、ひがみを持つことなく、「それが日本である。すべての富は医師のもとに集まるのである」と割り切ってしまえばいいのです。
そういえば、地方都市に行くと、すでに名門ゴルフ場の月例競技は、参加者の多くが医師であり、あたかも地元の医師会の例会のようになっています。
地方都市で瀟洒なタワーマンションが建設されれば、そのほとんどの部屋を地元の医師が投資用に買い占めています。地方ではすでに医師への富の集中が見られているのです。
財力を持った組織や軍団が強いのは歴史が証明しています。ですから、次のステップでは、その医師がリーダーとなって、国政を差配すればいいです。

この世には、軍事政権国家があるのですから、医師政権国家というのがあってもおかしくありません。「国民の健康を守る」という観点を中心に据えますので、暴力的要素を持つ軍事政権とは異なり、とても良い国になるかもしれません。いや、もしかすると、今の日本国民が、まさに望んでいる国になるかもしれません。ただし、良い国になるか、悪い国になるかは、政権をとった医師の個性の問題に帰結します。

そういう社会になるのが嫌なら、方法はただ2つしかありません。医師を打倒し、医師を規制する暴力的革命を起こすか、国民が、人体、健康、医療を学んで死生観を確立し、医師の過剰な検査推奨、治療推奨に対して、取捨選択する力を持つと同時に、医療サービスの在り方を議論できるようになるかのどちらかなのです。

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