月刊メディカルサロン「診断」
歴史考察:「たった一人」の観点から(下)掲載日2018年10月1日
月刊メディカルサロン11月号
権力主体者に対して、不平、不満が社会の底辺に静かに渦巻いている。そこに一つの発火点が生ずれば、それが強い求心力を発揮して、不平、不満の人々を立ち上がらせて強力な勢力が生まれ、社会が逆転していく。その発火点のキーワードが、「たった一人」です。
歴史の転換点は、合議の結果で生まれ出てはいません。衆論を集めて生まれるものでもありません。「たった一人」の命がけの決断と、まさにその命を捨てての勇気から生まれています。
「世の中、こうあるべきだ」「社会を打開するにはこうするべきだ」などに関して、「たった一人」の勇気と決断が大きな転換点となるのです。
前回、前々回では、その「たった一人」に関して、中大兄皇子(天智天皇)、源頼朝、織田信長を上げました。この3人は、「たった一人」で事を起こした後、大勢力を築いて、社会をひっくり返しました。社会刷新の起点は、「たった一人」の無謀とも思える勇気でした。
File(4) 高杉晋作
ペリー来航以後の幕末史における「たった一人」の発火点を挙げよ、と言われたら、皆さんは誰を思いつくでしょうか?私は、高杉晋作を思いつきます。
安政の大獄で吉田松陰が幕府に捕らえられました。そのとき、高杉晋作はたまたま江戸に遊学中でしたので、松陰の世話係のような形式で、獄に通っていました。そこで、多くの語り合いがあったでしょう。吉田松陰と最も心のつながりが深かったのは、おそらく高杉晋作なのです。
長州藩に呼び返されて、江戸から長州に戻る道中で、高杉晋作は、松陰が処刑されたことを知りました。嘆き悲しむと同時に、
「松陰先生の復讐として、必ず幕府を滅ぼしてやる」
と誓ったことでしょう。
腹の奥深くに、復讐の思いを秘めた人は、孤独になります。志は語り合うことができても、復讐は語り合うことはできません。腹の奥深くに秘めて、決して語らず、秘めていることさえ秘匿し、ある一瞬のチャンスで実現させる。それが復讐というものです。復讐を口にする人は、ただのパフォーマンスにすぎません。
ところで、1800年代は江戸幕府の権威が凋落してきた時代でした。
徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が誕生した当時は、将軍の強力な武力と、将軍の与党勢力で日本国は統合、統治されていましたが、時代が進むにつれて、各藩の自律性が高まってきます。特に経済的に豊かになった藩の独立性が高まるのです。
そんな中で、江戸幕府の開設時より半野党的存在であった長州藩と薩摩藩が、実力をつけてきます。この両藩は、江戸幕府成立の時から、徳川家に恨みを抱いています。過去の恨みに対して一矢報いたい気持ちは藩の中で醸成されています。
開幕当初は強力な武力がそのまま権威となって、江戸の将軍家が日本国を統合、統治していましたが、時間とともに、権威は天皇の元へ回帰します。そのため、「天皇の御心に沿う」がそのまま大義名分として活かせる時代になっていたのです。
産業革命を成し遂げ、強力な軍事力を持った欧米勢力に対して、「日本国、どうあるべきか」が、国の議論となった幕末時に、「天皇・朝廷」対「幕府」の構図が芽生え始めました。いうまでもなく、尊王攘夷派と和親開国派です。
現実路線としては、江戸幕府が進める和親開国が当然なのですが、たまたま天皇が攘夷を望んでいたので、そこに反幕府勢力が動き出す余地が生まれました。京都と長州(周防、長門)を舞台として、これが巡り巡るのが幕末の歴史です。
反幕府勢力の急先鋒であった長州藩は、尊王攘夷を掲げて、当初は朝廷とうまく結びつきますが、その勢力の増大を警戒した薩摩藩の謀略と武力により、京都から駆逐され、反朝廷のレッテルを貼られてしまいます(8月18日の政変と蛤御門の変)。その過程で、多くの長州藩士が戦死しました。吉田松陰の門下生も多数死にました。
その間、高杉晋作は、長州藩内の過激活動の勢力と距離を置いていました。たまたま距離を置くことになったのか、わざと距離を置いたのかは不明ですが、腹の中に幕府への深い復讐心を抱いていた高杉晋作は、幕府に対してちょこちょこと小さな手出しをすることは考えず、一気のどんでん返しを企んでいたことでしょう。「その時」が来るのを待つ、のスタンスだったはずで、深い復讐心を持った人間は、そうします。赤穂浪士の大石内蔵助もそうでしたが、「その時」が来るまで、関心がないふりをするのです。
生まれながらにして優遇される地位を得ている者は、現体制の継続を望み、言葉のやり取りを好んで、命を捨てる勇気を必要とする現場から一線を引いてしまいます。しかし、社会の最底辺で生まれ育ち、失うものがない者は、志を得れば命を捨てる行動に出ることができます(草莽崛起)。織田信長も、自らガキ大将を演じた「うつけ時代」に集めた「食い詰め者達」を、自己の中核部隊としていました。高杉晋作は、その辺を吉田松陰から学び取ったのでしょう。
高杉晋作は、藩の上層部に提案し、長州の一般民衆から集めた志願兵を中心とする部隊の創設に取り組み、成功させました。いわゆる奇兵隊です。資金提供者も現れたので、最新兵器を装備した近代軍を築けたのです。武士ではない一般民衆からの志願者ですので、武士のように剣術や鎧(よろい)に頼りません。スムーズに近代兵器の扱いを習得しました。それに倣って、長州内に○○隊(遊撃隊、力士隊など)が次々と結成されました。吉田松陰の草莽崛起の思想が、高杉晋作を通して具現化されたのです。後の国民皆兵の原形です。
しかし、高杉晋作自身は、軍を創設したのち、その軍とは距離を置いた立場に戻ります。政治的野心がほとんどなかったように思えます。
自分の考え方が正義であると信じれば、それを絶対に曲げない男たちがいます。損得を超越したところで自己が存在しているのです。尊王攘夷運動で死んでいった人たちは、そんな人たちです。高杉晋作は、リーダーとして品川のイギリス大使館を焼き払いましたが、その経験が関与したのか、以後は、うかつな最前線行動は避けておく、という本能が働いたようです。腹の中に秘める復讐心が優先したので、一発逆転の時をイメージして、「無駄死に」を避けようとする強い意思が働いたのでしょう。長州藩には、多くの死んでいった討幕派がいましたが、高杉晋作は、上海に行ったり、獄につながれたり、藩を脱出したりを繰り返しながら、戦いの最前線に出ることなく生き残ります。おそらく、復讐心のみで、政治活動への関心が薄かったから、その立場を受け入れられたのでしょう。
その高杉晋作の真価がついに発揮されたのが、功山寺の挙兵です。禁門の変、第1次長州征伐発令、4国連合艦隊との戦争・敗戦で、長州藩は弱体化し、藩内の心の流れは、幕府への完全恭順体制へと向かいます。その恭順体制になれば、倒幕の可能性は消滅し、江戸幕府は存続することになったでしょう。
その長州藩内の完全恭順体制が完成しようとする、まさにその直前に、高杉晋作は、周囲の人の同調を得られないまま、「事、ならざれば一死あるのみ」の覚悟を持って、「たった一人」でクーデターを狙い、功山寺で挙兵したのです。最初はわずか数十人が集まってくれただけでした。しかし、人数の少なさにめげることなく、その数十人で果敢に軍事活動を起こし、初戦を成功させると、続々と諸隊が集まり、ついに長州藩の正規軍を打ち負かして、クーデターを成功させ、長州藩内を討幕一色にまとめあげました。地方で隠遁していた桂小五郎(木戸孝允)、村田蔵六(大村益次郎)らも戻ってきて、人材が充実します。ちなみに、最初に集まった数十人のうち、一人が後の初代内閣総理大臣伊藤博文です。
その直後の四境戦争(第二次長州征伐)で幕府軍を打ち負かしたので、幕府の求心力を奪い取ることができ、幕府を滅亡へと歩み始めさせたのです。
江戸幕府は、吉田松陰の刑死を恨みとした高杉晋作たった一人の復讐心のために、滅ぼされてしまったといっても過言ではありません。
高杉晋作自身は、幕府軍を追い払い、小倉城を炎上させたのち、結核が悪化して、29歳で死んでいます。復讐を実現し、日本国の未来を切り開いて死んでいくその気持ちは「快」であったろうと思います。
余談
自分は天下国家のためにこうあるべきだと説いて活動している。しかし、時の為政者は、自己の既得権益そのものである今の体制を守ることに汲々としていて、それを理解しようとしない。その為政者に自分は閉じ込められて身動きが取れない。その無念の思い、皆さん、わかりますでしょうか?私にはよくわかります。
吉田松陰のその思いは、世話をしてくれていた高杉晋作に乗り移ったことでしょう。「今の既得権益集団では日本を守ることはできない。討幕路線でいくべきだ」という方向性が晋作の心に沁みとおり、それを実現させました。
「既得権益を持たない人たち、特権意識を持たない人たち、そういう社会的底辺にいる人たちの志と勇気にこそ、日本の未来を託すことができるのだ」の思想は、そのまま草莽崛起(そうもうくっき)という語で残されたのです。