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月刊メディカルサロン「診断」

歴史の回答・・・甲編掲載日2019年10月2日
月刊メディカルサロン11月号

私は歴史が大好きです。特に、日本史と中国史が好きです。歴史のどこかの一節が小説化されていれば、必ず目を通します。
昔の話であればあるほど、文章での記録が乏しく、事実がわかりにくいので、小説に面白みが深まります。小説を読みながら、小説ではこのように描かれているけど、事実関係はこうだったのだろうな、などと考えを巡らせるのは楽しいものです。その楽しみを味わうために、毎晩、読書に耽っています(もちろん、医学の勉強の傍らですが)。

多くの歴史家が、歴史の事象に対して、様々なコメントを述べています。中には、「それはないだろう」と思えるものもありますが、ほとんどのものは、「さもありなん」と納得できるものばかりです。
また、歴史上の各人物に対して、さまざまな評価を述べています。この評価に関しては、私は納得できないものが多々あります。「英雄を知るのは英雄だけ」で、コメントを述べている人が英雄というわけではないからです。コメントを述べるのが仕事かもしれませんが、英雄には思えない人が、コメントを述べ過ぎています。

いまだ解けざる「三つの謎」

歴史の結果に対して、「なぜ、こうなったのだろうか」「なぜ、こうしたのだろうか」を考えるのも楽しいのですが、それに関して、十分なコメント、あるいは納得できるコメントが述べられていないものが、少なくとも三つあるように、私は思っています。

一つは、「源家の恩」です。源頼朝が旗揚げした時、「大恩ある源氏の御曹司の元に関東武士が参集した」「先祖が受けた源義家公の恩を忘れず、頼朝の元に集まった」などの表現が見られます。この「恩」というものの実態が謎です。
もう一つは、織田信長の「天下布武」の印綬です。尾張、美濃の二カ国を制した時に、信長は、「天下布武」の印綬を使いだしています。この「天下布武」の真意が謎です。
そして、最後の一つは、「本能寺の変」です。私がもし明智光秀なら、「信長を殺すしかないと思うのは、この場合に限る。共倒れ、あるいは、自滅も覚悟の上だ」と思いつくものが、たった一つだけあります。それがコメントとして、誰からも述べられていません。
この三つを、甲編、乙編、丙編として、3回にわたって述べてみたいと思います。

謎1「源家の恩」

封建制度に関して、主君と家臣は「御恩と奉公」の関係で結ばれている、などと表現されます。鎌倉幕府の開設以後は、
「主君が家臣に土地の権利を与えて、その土地の所有権を保証する。そして、その家臣は、その土地からの収穫を得る。その代わり、主君の命令には従うようにする。主君の命令に逆らうと、手討ちになったり、軍勢を差し向けられて討ち滅ぼされたりするのもやむを得ない」という説明で、「御恩と奉公」は、すっきりします。
しかし、鎌倉幕府開設以前の「源家の恩」というのがよくわかりにくいのです。誰が何をした結果、「恩を与えられた」のでしょうか?
話の経緯を整理します。頼朝の旗揚げより100年ほど前に、関東地方にやってきたのは、源頼義と義家の親子です。朝廷が派遣した軍勢の総大将で、前九年の役の時は頼義が主体者、後三年の役のときは義家が主体者です。この「後三年の役」の際に、関東の武士は、義家公から恩を受けたことになっています。何を恩としたのでしょうか?
後三年の役の結果、東北地方の支配者となったのは藤原清衡です。後に三代の栄華を極めたと言われていますが、その藤原氏が源義家の恩を受けたと言えば、誰もが納得できます。しかし、この藤原氏は、源頼朝の旗揚げに駆け付けていません。
関東一帯の武士は、後三年の役に駆り出されましたが、新しい土地である東北地方は藤原清衡のものになったのですから、褒美として土地などはもらえていません。
荘園整理などに義家が仲裁して関与したとしても、土地が増えるわけではなく、また、仲裁は双方に泣いてもらうのが常で、恨みの方も残り、「100年後にまで伝わる恩を受けた」と表現するには無理があります。

いったい、この時代の恩とは何なのでしょうか?
「一宿一飯の恩義」と同程度のもので、義家公から飲食などをおごってもらっただけのことなのでしょうか?子孫に100年後にも語り継がれている恩ですので、ちょっとその考え方には無理があるように思います。
「命を救ってもらった」のなら、恩になるかもしれませんが、「救う」というより、関東武士は、危険な現場に駆り出されています。
「あ、もしかして子種のことかもしれない」と思い浮かびました。
地元豪族の娘に、源義家が子供を授けたのなら、その子供はその豪族の後を継ぎ、源氏一門(血筋的に天皇家とつながる)となり、地元の他者に抑えが効き、一族繁栄の元とすることができます。
「そうか、子種をもらったことが、恩を受けた、ということになるのか・・・」と、一瞬思ってみましたが、よく考えてみると、義家の血を受けた足利氏、新田氏、あるいは義家の弟の源義光の子種による甲斐武田氏は、源頼朝の旗揚げに際して、参集することなく、独立勢力を保っていました。子種は恩になるどころか、対抗勢力になっていたようです。

恩について~私のレビュー~

100年前に先祖が受けた恩。100年経っても語り継がれている恩。じっと考えつづけましたが、二つしか思い浮かびませんでした。
一つは武芸の教授です。武士は武器をもって命がけで戦います。一騎打ちが主流の当時ですから、腕力だけでなく、刀、槍、弓を扱う技術がものをいいます。「我が家に伝わる秘伝のこの技は、義家公から教わったものである」が、子孫に語り継がれているなら、それは恩になりえます。
もう一つは、武器や鎧のプレゼントです。武器や鎧には鋳造技術が必要で、当時は、貴重品であったのは間違いありません。武士の任務遂行の貴重な道具です。「我が家に伝わるこの鎧は、義家公より賜ったものである」が子孫に語り継がれているなら、それは恩になりえます。そういえば、後三年の役では、朝廷が褒美を出さなかったので、義家が私財をなげうって、地元の武士に報いたという記録があります。投げうった私財とは、源氏の嫡流に伝わる名刀、名槍、強弓、精巧な鎧のことかもしれません。
私はその二つしか思い浮かびませんでした。読者の皆さん、他に思い浮かぶものはないですか?

上記の話を現代に当てはめると、「飲食で奢ってあげた」「出世するように引き立ててあげた(=子種に相当する)」などは、相手のためではなく、自分のためであり、恩にはならない。仕事をするための道具をプレゼントしたり、仕事の技術や知恵を丁寧に教えてあげたりすることが、「恩を与えた」ということになるのかもしれません。
そういえば、「恩師」という表現がありますが、何かを教えてくれた相手に用います。「教えてくれる」と言っても、書物から学んだことで、その著者に恩を感じることはありません。手取り足取り、教わる何かが恩になるのです。
相手が任務遂行の上で、今、必要とされる直接的に役立つ技術や道具を与えてあげる。
それこそが恩の始まりかな、と感じるに至っています。

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