月刊メディカルサロン「診断」
歴史の回答・・・乙編掲載日2019年10月29日
月刊メディカルサロン12月号
謎2「天下布武」の真意
永禄3年(1560年)、今川義元を討ち取った後、織田信長は美濃に兵を進めました。そして、斎藤龍興を伊勢に追い出し、井ノ口城を手に入れ、そして、美濃一国の平定戦を進め、永禄10年(1567年)8月、井ノ口城を岐阜城と改名し、本拠を移転しました。その直後の同年11月から、「天下布武」の印綬を使い始めています。
歴史家たちは、この印綬の使用に関して下記のように解釈しているようです。
- この時点で信長が、「わが軍の武力で全国を征服してみせる」と宣言したものである。
あるいは、 - 「当時、天下とは、京都周辺のことを意味していた。上洛して、京都周辺を支配下において、足利将軍家を立てて、日本の秩序を回復してみせる」を意図するものである。
どちらの解釈でもいいのですが、納得できるでしょうか?
こんな宣言、意思表示をすると、あちこちに敵を作ってしまいます。「何を偉そうなことを言っておる。懲らしめてやろう」と東に接する武田信玄は思うでしょう。
また、京都方面の大名たちは、備えを固めてしまいます。「その備えざるを収め、その不意に出ず」は戦略の要諦です。どちらにしても、織田軍にとってはマイナスであり、そんなことを知らない信長ではなかったはずです。
当時はまだ、二カ国を統治しているだけの大名に過ぎません。それも、美濃を攻略するのに苦心惨憺し、今川義元を桶狭間に討ち取ってから、7年も要しています。
しかもその攻略は、武力によるものというよりは、調略活動が中心でした。多くの敵将を寝返らせることにより、美濃一国を手に入れています。斎藤氏相手の正面衝突の戦で勝利を積み重ねて、美濃一国を手に入れたわけではありません。正面衝突の戦場では明らかな勝利は得られないどころか、敗走することもしばしばありました。
織田信長は、若いころから子分にしていた自分の馬廻衆の700人はめっぽう強いけれども、それ以外の自軍兵士はたいして強くないことはないことを知っていたはずです。兵農分離の中で、金銭で雇った自軍兵士が主力ですので、戦の現場で粘り強さがなく、武力が優れているわけではないのです。つまり、織田軍には、弱い兵士がたくさん集まっていたのです。
それなのに、なぜ、わざわざ敵を作り出すような「天下布武」という朱印を用い出したのかが不思議です。どんな歴史解説者も、その時の信長の心情に関して、納得できる回答を出してくれていません。
天下布武について~私のレビュー~
私はこのような未解明の分野を見つけた時に、思考を巡らせるのが大好きです。
「天下に○○を布く」と言えば、一つ思い当たることがあります。
私は健康教育の必要性を説いており、予想医学検定その他の資格制度を主催しています。定期的に試験を設けて、資格を授与しています。この試験、社外から受けに来る人は、たいてい一発で合格するのに、私の配下のスタッフは、なかなか合格できません。
「しっかりと勉強しろ」「勉強は日頃が肝心」と、叱咤激励しても、勉強しようとしません。何かに油断しているのか、何か驕り昂ぶっているのか、とにかく、試験合格に対する必死の思いが欠けています。
叱咤しても激励しても駄目だと気づいた時、私は本能的に、皆の前で語っていました。
「我々は、天下に健康教育を布くのだ」と。配下の者に向かって、「お前たちしっかりと勉強しろ」という代わりに、つまり、それの同義語として、「天下に健康教育を布く」と話していたのです。その意図は、「我々は、全国民の健康に関する知識を高めるために仕事しているのだ。お前たち、つべこべ言わずに勉強しろ」です。
この経験を基にすると、武力の弱い自軍兵士がいて、その自軍兵士を叱咤しても調練を積もうとしないのを見て、苛立った信長はその者たちに、怒りと皮肉を込めて、「天下布武」と言い出したのではないかという気がします。その意図は、「俺たちは、武力で天下を治めようとしているのだ。つべこべ言わないで、武力を磨け」だったのでしょう。
当時の信長の状況を考えると、その思いが第一であったように思います。それを<一つ目>として、それ以外に三つの可能性があります。
<二つ目>
当時の信長は、美濃の中心部を奪っただけで、各地の平定戦が必要でした。新参の武将もたくさんいて、その武将たちは土地に根差しており、その土地を守ることのみに執着している者たちでした。
当然、美濃の国内でのもめごとも多発しており、信長は、新しい領内をまとめるのに苦労していたのです。そこで、新参者たちの心を外に向けて、領内でのもめごとを薄め、求心力を高めて、領内の民心をまとめることを目的として、「天下布武」の印綬を用いた可能性があります。
つまり、天下征服の意思など関係なく、「上下心を一つにする」の兵法にのっとって、その印綬を用いただけでなのです。「国内がもめたときに、外征を行う、外国を非難して、国内をまとめようとする」のは、今でもよく見られる手法です。
<三つ目>
美濃の周辺には、小土豪、小領主、小国人たちがたくさんいたはずです。その者たちは、周辺大名である佐々木氏や三好三人衆、武田信玄、朝倉義景らの与党になっています。彼らの内にも、「信長に味方するべきかもしれない」と悩んでいる者はいたはずです。その者たちの旗幟を鮮明にさせ、糾合するための大義名分として、「天下布武」の用語を用いることにした可能性があります。周辺の悩んでいる敵対者達に、与党になるか野党になるかの意思表示を迫ったのです。
<四つ目>
永禄10年に岐阜城に移った信長は、永禄9年から足利義昭が、すぐ北の北陸の朝倉家に居候していたのを知っていたはずです。信長は、足利義昭がどんな人物であるかを知りたかった。その足利義昭に、「あなたを旗頭にして、上洛戦を起こしてもいいですよ。おいでなさい」というメッセージを送れば、足利義昭は関心を示し、やってくるのではないか。つまり、「天下布武」というのは、足利義昭を呼び寄せるための隠語的メッセージであった可能性があります。
当時の信長の腹の底は、天下征服、畿内統一などの4段飛び5段飛びの発想ではなく、上記4つの程度のものであったと、私は推測しています。
いや、もしかすると、岐阜城に移った信長は、濃尾平野を見下ろしながら、「次の手、どうあるべきか」を考え、4つのすべてを目的とできるグッドアイデアとして、「天下布武」の印綬を閃いたのかもしれません。
どちらにしても、「天下布武」の印綬を用いた、その選択が、織田信長に独立独歩路線の一つのイメージを定着させ、後の苦労を引き起こしたのは間違いないように思います。