月刊メディカルサロン「診断」
人材糾合の観点からの三国志掲載日2020年7月30日
月刊メディカルサロン9月号
一つの歴史的事実に対し、いろいろな観点から歴史物語が創作されます。作者ごとに観点が異なり、どの本を読んでも飽きることはありません。
中国の後漢末から魏呉蜀の三国時代に至る過程の席史的事実に対して、「三国志」と銘打って、いくつかの物語が世に普及しています。そして、注釈書、コメント本、解説本のような書籍が、次々と刊行され、書店に並んでいます。
今回、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備という建国者の足跡を、人材糾合という観点から考えを深める機会を得たところ、現代に通じる普遍真理ともいえるものを見出しましたので、述べてみます。
曹操に学ぶ
曹操は、若い頃に用兵の才能を認められたのか、西園八校尉の一人に任じられました。軍を率いる将軍の地位です。この当時、「孝廉」という人材推挙の制度がありましたが、それと関係しての任命だと思います。漢の国の軍隊の指揮官としてそれなりの兵を配下に持って、黄巾の乱の討伐などで活躍したことでしょう。
黄巾の乱を鎮定した後、漢の宮廷内では、外戚と宦官の権力闘争が激化します。その混乱に乗じて、董卓が漢の首都に乗り込み、政権を掌握します。その際、曹操は、故郷に逃げ戻ります。曹操の家には祖父が残してくれた莫大な財産がありました。曹操は、その財産を使って、故郷を地盤とする数千人の私兵軍団をつくりあげ、反董卓の軍に参加します。その際に、曹操の一族は皆参集し、曹操軍の中核を占めることになります。
反董卓軍は、袁紹を盟主として数十万人の規模になり、董卓は難を避けるために、漢の帝を連れて西方の長安に遷都します。国家統治の中心である皇帝が西方の都市に移動し、一地方勢力化してしまったため、漢の国は群雄割拠の時代となります。この時点で曹操は、漢の12州の一つの州(兗州)の一部を領有する弱小勢力に過ぎませんでしたが、曹操の軍事の才で徐々に勢力を拡大します。
そんな矢先、長安の董卓が暗殺され、帝の周囲が乱れます。帝は長安を脱出し旧都の洛陽に向かって近親のみを連れて流浪します。この時、勢威の衰えた帝を救おうとする群雄はいませんでした。おそらく、自己の勢力拡張に奔走する毎日でしたので、「火中の栗」になるかもしれない帝に関与しようとする気になれなかったのでしょう。帝を呼び寄せると、自分は帝の下に位置することにもなり、勢力争いの阻害要因になるかもしれません。それを潔しともしなかったのでしょう。
驚きの一手の裏には・・・
こで帝に目を付けたのが、曹操です。当時の曹操は、兗州一つをまだ安定させることもできていない勢力でしたが、旧都に到着したばかりの帝に手を差し伸べました。そして、許昌という地に宮廷を建設し、漢の都を復活させたのです。
多くの歴史のコメント本は、この一連に関して、「曹操は、帝を手中に収めることによって、軍事活動に大義名分を得た」と評しています。また、「自己の活動に大義名分を得るために、帝に手を差し伸べた」とも評しています。つまり、帝を勢力内に向かえたのは、「軍事行動にあたって、大義名分の獲得を目的としていた」の論調です。
曹操の思惑は、本当にそういうものだったのでしょうか? 読者の皆さんが、曹操の立場なら、ようやく一州の地盤を得たかどうかの時点で、望むものは今後の軍事活動における大義名分でしょうか?
天下を制圧するにあたって、大義名分に大きな価値があることは間違いありませんが、天下制圧など、巨大勢力に取り囲まれたこの当時の曹操には夢物語にすぎません。兵を養うための農業生産力にも目を向けて工夫しなければいけない段階です。もっと具体的に、この時点で曹操が求めていたものは何なのでしょうか?
人事戦略~エリート人材獲得~
この当時、曹操の勢力の北側には、袁紹の勢力が巨大化していました。袁紹は、四世三公と言われた名門の家柄の出です。四世三公というのは、4世代にわたって、漢の中央政権の最高職である三公(司空、司徒、大尉)の地位のどれかを占めたという意味で、漢の官職の最高位一族ということを意味します。この名門の出である袁紹の下に、天下の優れた人材が続々と集まっていたのです。人材の集合はそのまま勢力拡張を意味して、後に袁紹は北方4州(冀州、青州、併州、幽州)を制圧することになります。北方4州の各地に盤踞(ばんきょ)する小領主たちが、名門の出である袁紹に仕えるにあたって抵抗感はない、その配下に加わるべきであるという気分だったのでしょう。
それに対して曹操の家柄は、宦官の家柄として蔑まれていました。祖父が財をなしたので、軍を興すことはでき、曹操自身が優れた軍才を持っていましたので勢力を拡張できました。しかしながら、良家の家柄でないので、曹操の下で働こうとする人材が集まりませんでした。食い詰め者たちを兵として集めることはできますが、優れた人材には欠乏したのです。
当時の家柄というのは、おそらく現代の学歴に近いものがあったのでしょう。才走ってはいるけども三流大学を卒業した男の元に、東大の卒業生を集めることができるかどうかという点で考えると、その時の曹操の気持ちはわかるかと思います。
漢の帝を迎えて、曹操は漢帝国の「官の職制」を利用することができるようになりました。つまり、自分の元にやってくれば、「漢の国家公務員としての肩書を与えてあげるよ」です。現代でも、働く会社の名前や肩書にこだわる人は多いので、それらの気持ちはわかると思います。
人間社会は、最終的には実力勝負になりますが、表向きのスタートとしては、社名、肩書は重要なのでしょう。曹操は自身を、三公のひとつである「司空」に就任させ、それまでの部下たちに官職を与え、新たな人材には官職をちらつかせることが可能になったのです。
やがて曹操は、徐州、豫洲を支配下におさめて、北方の袁紹を打ち破り、魏の建国へとつながっていきます。
孫権・劉備に学ぶ
以上のような人材糾合の観点で見ると、呉と蜀はまったく異なる展開を見せます。
呉は、求心力の中心に孫権を戴いて、周辺の土地に勢力を根差している者たちの連合体としての国家が形成されていきます。だから、孫権の周囲の人材は、周辺各地域の土地の支配者たちです。日本の大和朝廷の勢力拡張は、この呉の建国と似ているかもしれません。現代におけるM&Aによる勢力拡張は、まさにこのパターンです。
職を建国した劉備は、三国志演義などでは主人公として巧みに描かれていますが、その実態は、傭兵軍団のボスに過ぎなかったように思います。数十人から数百人程度の兵を率いて、あちこちの群雄の下に寄生し、傭兵として活躍していたにすぎません。
しかし、注目したいのは、収入基盤となる土地を持たない流浪の傭兵軍団が、なぜ長い期間存続できたのかです。具体的には、なぜボスである劉備の元に、武勇長けた者が多く集まり、そして離反していかなかったのかという点です。劉備という者の人材術の何かが神がかり的であったのでしょう。劉備軍団は、存続することさえ困難なはずなのに、集まった人材を核として、後には蜀の国を建国しています。そういえば、「三顧の礼」「水魚の交わり」は、まさに劉備にまつわる人材関連の格言です。
現代において新たに創業しようという者は、「人材を惹きつける」という観点で、曹操、孫権、劉備玄徳の三態をしっかりと勉強しておくのがよいと思います。