月刊メディカルサロン「診断」
「命より大切なもの」と健康管理学掲載日2021年7月29日
月刊メディカルサロン8月号
人には命より大切なものがあります。何だかわかりますか。
病気を治療するのが医師の仕事です。命を守るのが仕事であると言ってもいいでしょう。しかし、同時に命の終焉を告げるのも医師の仕事です。命の間際(まぎわ)を日頃よく見ています。その命より大切なものがあることに私は気づいたのです。
命より大切なものとは
新型コロナウィルスの蔓延で、多くの人が命を失っていきました。世界各国で人々の命を守るために、様々な制限がなされました。その制限を素直に受け入れる人もいますが、受け入れることを拒否する人もいます。動画が普及した今、さまざまなシーンが映像となって示されました。
当初は、「マスクは絶対につけない」という主義を貫く人が諸外国には多かったように思います。国の元首でさえ、そのように騙っている人がいました。そのことは、
「マスクをつけるくらいならコロナに感染して死んだほうがましだ」と本気で思っている人が大勢いることを意味します。つまり、命より大切なものがこの世に存在するのです。
フランス革命、フランス人権宣言、アメリカの独立戦争、南北戦争、そして、第二次世界大戦のアジア一帯での民族自決の運動。多くの人が死んでいきました。何を求めて死んでいったのでしょうか。「自由」を求めて死んでいったのです。
つまり、人には命よりも大切なものがあり、それは「自由」なのです。
日本における「自由」の変遷
日本は、歴史的に常に自由を制限されている国でしたので、自由を求める戦争が存在しません。領土拡張の戦争、平和を求める戦争、国内統一を求める戦争はありました。そのような中で、強いて言うなら、戦国時代の一向一揆だけは、自由を求める戦いだったかもしれません。
「トップに天皇がいる。これを崩してはいけない」という不文律が存在し、その下に国家統治体制が組まれてきたので、完全な自由はなかったことになります。完全な自由は国家転覆を目論むことを許すからです。
自由の思想に欠けてきたわが国ですが、20世紀から21世紀にかけて、日本においてもこの自由の思想や信条が急速に発達しました。急発達の途上だから未成熟です。
コロナ禍の対策において、「日本においては私権を制限するのが困難である」と政治家は語っています。逆に言えば、だから欧米型のロックダウンができないのです。つじつまの合わない自己矛盾に思えますが、太平洋戦争中の諸政策に対するトラウマはそれほどに大きかったということでしょう。
かつての日本には、「タバコをやめるくらいなら死んだほうがましだ」という人が大勢いました。タバコが好きである、というだけのことではなかったようです。自由を制限されることに対するかたくなな拒否本能が大元に存在したのです。
「自由を制限されている」と感じ取ったら、人は命懸けの抵抗を起こします。このことは、人間関係を考える上で、絶対に忘れてはいけない社会法則になります。たとえば、恋愛は束縛を要求します。相手の自由を奪ったために失敗した思い出など、山のようにあることでしょう。
「自由」と「規律」のバランスが重要
1990年代までに社会人になった人にとっては、現代の仕事の社会は信じられないような変化を遂げています。
「職場で自由はない、業務命令の遂行あるのみだ。ノルマとの戦いがあるのみだ」という徹底した自由抑制の社内体制から、「自己の自由があって当然。職場は自由を堪能する生活の一環に過ぎない」という自由満喫の社内体制に変わってきたのです。働き方を改革してきた結果です。
勤務中に自由を堪能している者を見た時、「さぼっている」「怠けている」と判定するわけにはいかなくなったのです。「自由を堪能しているな。思う存分に堪能しておきなさい」という目で見なければいけないのです。
もちろん、「面倒くさがる」「怠慢のため頻繁に間違える」「自分が行わないことによって他者が行うのを待つ」などの姿勢は罰しなければいけません。それらと「自由を堪能する」というのは、まったく別次元のことなのです。
一方、自由というものを取り違えてはいけません。自由に対して、規律という問題もあるからです。ある目的を実現するために集まった人間集団がいたとします。各人が勝手気ままに振舞えば、その集団の目的実現への遂行に対して、効率性を発揮できません。そこで、規律を重視するという常識が発生します。
お隣の中国は多くの民族を内包しており、その統制のために、思想面の規律を重視せざるを得なくなっています。香港問題がその代表ですが、思想・信条の自由を剥奪していることが、どのような展開になるのかは見物(みもの)です。規律を徹底させることに関して、中国は古代から様々な指南書を残していますので、自由を求める戦いを起こしても、ちょっとやそっとで成功しないのではないかと思われます。
健康管理学と「自由」
人は自由を得るためには命さえも捨てようとするのです。長生き、体調絶好調、若々しい容姿を目指すのが健康管理学ですが、自由の方が重視されるという現実は健康管理学の中に織り込まなければいけません。
人は生まれてから死ぬまでの間に様々な事象を経験します。小児期の遊び、学び、学生生活、受験の成功・失敗、恋愛、婚姻、子育て、旅行、家の購入、転職、知人との別れ、書物による価値観転換、国家権力による抑圧など、数え上げればきりがありません。経験の中でも辛さの最たるものは、「病気になる」というものです。回復して元に復すればそれでいいのですが、回復しない長年の闘病生活を余儀なくされることもあります。
日常生活を思い起こしてみてください。健康に影響を与えるものだらけです。伴侶との人間関係、伴侶の人間性、気持ちのいい入浴、温泉、眼前の景色、吸っている空気、大型トラックが走る道路と自宅との距離、飛行機に乗る頻度、飲酒量、酒の種類、飲酒によるストレス解消度、美味しいと感じる料理、笑いの頻度、起床時間、熟睡感、就寝時間、日中の仮眠、職種、退陣ストレス、資金繰りストレス、住居の階層、通勤に要する時間、朝の体操やストレッチ、摂取する栄養素、治療のための薬など、すての活動が健康に影響を与えます。健康に良い影響があった場合は「効果・効能があった」といい、悪い影響があった場合は「弊害があった」と表現します。
つまり日頃の出来事のすべては、健康への効果効能を有するか、弊害を有するかということになるのです。
それらを研究し、人が生き抜く人生どうあるべきかまでも考えていくのが健康管理学です。私は、その研究に没頭しています。健康管理学は研究するテーマがたくさんあり、自由の満喫がどのような位置づけになるのかを研究するのも、健康管理の学問化なのです。
「健康管理の学問化」という壮大な研究テーマに取り組んでいる私にとっては、学問の自由、表現の自由は、命より大切なものとなります。それを冒す者がいれば、私は命懸けの戦いを起こすことになるのです。