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月刊メディカルサロン「診断」

「死ぬこと以外はかすり傷」…「死」を使った座右の銘掲載日2021年7月30日
月刊メディカルサロン9月号

東京2020オリンピックにおいて、柔道女子46㎏級で渡名喜風南(となきふうな)選手が初日に銀メダルを獲得し日本勢に自信と勢いを与えました。そのインタビューで、彼女は自分の座右の銘を語りました。
「死ぬこと以外は、かすり傷」
「死」という単語が入っていますので、そら恐ろしい印象を受けますが、その主旨は「どんなことがあっても死ぬほどのことはない。つまり、たいしたものではない。かすり傷みたいなものだ。いちいちくよくよしてはいけない」という解釈になるのでしょうか。
どんなにつらいことや悲しいこと、苦しいことがあってもめげることなく前進していこう、という力強いスーパーポジティブな心得を示した「座右の銘」です。

格言、ことわざ、教訓などから、自分が気に入ったものが「座右の銘」となり、それらはその人の人格形成に大きな影響を与え、その人の美学を形成します。
さて、「死」という単語を含む台詞で、私が高校生の頃から日ごろの心の支えとしている「座右の銘」がいくつかあります。それを紹介します。

「事(こと)、ならざれば、一死あるのみ」

吉川英治氏が三国志を描く中で、漢中争奪戦における劉備軍の将軍趙雲(ちょううん)の言葉として創作した台詞です。「ならざれば」というのは、「成し遂げることができなければ」の意味です。
少数の兵を率いていた趙雲の軍が、勢いに乗って攻めかけてきた曹操の大群と正面衝突することになりました。趙雲は奇計の展開とともに曹操軍の肝を冷やす戦いぶりを見せ、曹操軍を見事に追い返しました。その時の戦いに関して、他の武将から
「危ない戦いでしたね。勝算はあったのですか?」
と尋ねられた際に、趙雲は答えました。
「君命を受けて戦場に出たなら、勝算があるかないかなど考えていない。君命を遂行するのみであり、事(こと)、ならざれば、一死あるのみだ」。

作戦遂行の目的達成に向かって邁進する。その作戦が良いか悪いかなど考えず、自分の任務を遂行し、任務を遂行できなかったら、その戦場で死ねばいいだけだという覚悟、潔さ、清々しさが伝わってきます。
何よりも、君命を受けたらその作戦にいちいち文句や異を唱えないで、黙って命懸けで遂行する、という忠誠心に感銘を受けます。数々の戦功を挙げた趙雲は、そのような将軍として描かれているのです。

これがうまくいかなければ、切腹あるのみ

現代において、ある者に何かのプロジェクトに取り組ませようとすると、取り組む前からうまくいかなかった時の言い訳づくりに奔走することが多くなっています。そして、「これを言い訳にできる」というのを見つけて、あるいは作ってから取り組もうとします。失敗した時の言い訳がないと、不安で仕方がないようです。予防線を張っておきたいのです。予防線づくりに躍起になった人は、必ずそのプロジェクトを失敗させます。そして、予定通りの言い訳をします。その言い訳で「自分は守られた」と思っているのです。
人生経験者の目からは完全にお見通しであり、このような心構えの人が社会で重宝されるはずがありません。しかし、言い訳好きですので、重宝されない自分の現実に対して、社会を非難して言い訳とします。その言い訳の声に基づいて数々の労働法規が作られていくことに、私は強い危惧を感じています。政治家や厚労省は、目を覚まさなければいけません。

私は、健康管理の学問化などの自己の事業において、多くのプロジェクトに取り組んできましたが、私自身が先頭を切って、「これがうまくいかなければ切腹あるのみ」の覚悟で向かったプロジェクトは、すべて成功させることができました。切腹覚悟を持てなかったプロジェクトは、何となく他者任せになり、妙な持久戦に陥り散財するのみでした。
動くべきことには自ら先頭を切って電撃的に動いていく。動くべきでないことは、中途半端に動かず、鳴りを潜めてじっとしている、を貫きたいものです。そんなことを考えながら自己を振り返ると、「あぁ、私は未熟だなあ」と思うのです。

死に別れない限り、別れなし

人間関係には様々なエピソードが積み重ねられ、多くの思い出や揉め事が残りますが、最後は必ず離別です。離別なき人間関係は存在しません。人は最後に死ぬのですから、死別があり、だから「最後は必ず離別」というのは当たり前です。
離別が世の常のこの世の中で私が座右の銘としているのは、「死に別れない限り、別れなし」です。一時の怒りや一緒にいることのデメリットを考えて「別れたい」と思うのですが、同時に一緒にいることのメリットや一緒にいざるを得ない事情が関与して、「別れるわけにいかない」となり、人は悩むのです。
一緒にいることのメリットの奥底に潜むのは、必ず金銭問題です。金銭問題を後回しにして解決できる社会システム(ベーシックインカムなど)があれば悩みはなくなるのですが、今の社会システムでは、金銭問題は個別の相対(あいたい)の問題になり、同時解決しなければいけない問題になっていますので、悩みが深まるのです。

別れても相手は生きています。お互いに生きているなら、何かの機会で価値感の変化も生まれ、再びすり寄ることもあります。怒りが元なら、その怒りはやがては忘れるのです。また、生きているともっといいことやもっといい出会いもあります。
「死に別れない限り、別れなし」の気軽な心得で、人生を謳歌してほしいものです。

「死生命あり。富貴天にあり」

これは論語の一節ですが、私は高校生の頃に吉川英治氏の作品で覚えました。今までの人生、ことあるごとにこのセリフを心の中で反芻していましたが、大爆笑なことに、つい近年までその意味をはき違えていたのです。
「人の生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできない。地位、身分の高い低い、金持ちになるかどうかは天命によるもので、自分で何とかできるものではない」が本来の趣旨で、「努力することが大切です、その先は天(社会)が決めてくれる」ということを述べています。しかし、私は「生きている限りは命懸けで努力しなさい。そして、質素倹約を貫きなさい。贅沢を望むなら、死んでから天に昇って望みなさい」と解釈していたのです。まさに爆笑問題ですが、この誤解釈が私の人生を支えてきました。

「健康管理を学問化する」と決心して創業して以来、その全体系が見えてきて、「健康管理指導士」の教科書を書き上げるまでの十数年間、私は徹底した質素倹約を貫きました。「贅沢は死んでから行う」の覚悟を定め、あらゆる資金を事業につぎ込み、従業員のための出費は行いましたが、自分のための出費は、身の回りの絶対必要物のみに限らせていたのです。
「天国良いとこ一度はおいで」の音楽が耳に連呼し、「そのうち行くからな。人生を楽しませてくれ」などと語りかけていたものです。

創業時、あらゆる先輩や同輩が、「そんなもの絶対に不可能。できるわけがない」と言っていたことを成功させた背景は、この「富貴天にあり」の誤解釈だったのです。
そのようなこともあって、「何かで創業したら贅沢を楽しめる」と思っている人を見る度に、「あなたが創業したら必ず失敗するよ」と思ってしまうのです。
創業の心得は、「世の中の不便や社会システムのために苦労している人や困っている人を救いたい」でなければいけません。

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