月刊メディカルサロン「診断」
アントニオ猪木さん掲載日2022年10月30日
月刊メディカルサロン11月号
はじめに
二千数百年前、中国の春秋時代のことです。
全盛時代の斉の桓公は隣国(魯)に攻め込み、大勝を得ました。魯は、遂邑の土地の割譲を申し入れて和睦を乞います。それを受け入れた契約の席上、魯の男(将軍曹沫)が一人立ち上がり、一瞬の油断に付け込んで護衛兵をかわして斉の桓公の側にピタリとくっつき、刃物を突き付けました。
「これまでに奪った領土をすべて返せ。さもなければこのまま一突きでお前を殺す」
桓公が断れば、一突きで殺してその男も死んでしまうつもりです。桓公はやむを得ず、「わかった」と答えます。男は、「それはありがたい」と答えて席に戻ります。桓公は、「その男を殺せ、始末しろ」とは言いませんでした。
脅されて答えただけですが、約束は約束。桓公は、奪った土地をすべて返してしまいます。曹沫の「覚悟を決めた潔さ、度胸」と「約束したら必ず実行する」という桓公の懐の深さが伝わります。桓公は、その心の大きさも含めて覇者として後世に名を残します。
このエピソードから2~3百年が経過した中国の戦国時代の頃。
強盛を誇った秦の国が趙の国に攻め込み、趙は首都を取り囲まれ絶体絶命のピンチに陥ります。趙は使者(平原君)を楚の国に送り、援軍を求めます。楚の国王は、援軍を送るべきかどうかで悩みます。援軍を送らなければ、趙の国は減びます。援軍を送っても趙を救える見込みは微々たるものです。援軍を送れば秦の国の怒りを招いて、次は楚に攻め込んでくるかもしれません。秦の国とは仲良くしておくべきと思うのが普通です。
会議の席で優柔に構えるその国王のすぐ側に、使者の従者が近寄ります。国主が、「無礼である」と怒鳴りつけます。するとその従者はひるまず、「国王がそのように怒鳴るのは貴国が持つ百万の軍勢を恃んでのこと。私とあなたの距離はたったの数歩。その距離の間に百万の軍勢が何の役に立ちますか」と逆に怒鳴り、さらに問いかけます。「趙が亡べば次に秦は楚に攻め込む。そんなわかりやすいことがなぜわからないのか」
その気迫に押されたのか、それともその男の言い分を悟ったのか楚王は、「わかった。援軍を送る」と約束します。その援軍により秦は敗れ、趙は救われます。
その秦の国が、秦王政(後の始皇帝)を君主として他国を滅ぼしながら天下統一に向かい始めた時のこと。弱小国であった燕の国は、刺客(荊軻)を秦王に差し向けます。刺客を和睦の使者に見せかけて秦王の側に送り込み、「服従の証に督充の土地を差し上げます。秦の支配下の国となり今後の指示命令に従いますから、どうか攻め込まないでください」と申し入れるのです。そして、差し上げる土地の地図を持って行かせ、その地図の中に短剣を忍ばせ、秦王の前で地図を開く時に一気にその短剣で刺し殺すという作戦です。
服従を誓う使者に機嫌をよくした秦王は、「どれどれ、その地図を見せてみよ」と使者を側に寄せます。スルスルと開かれる地図の中から短剣が現れました。瞬時にその短剣を掴んだ使者は必死必殺の一突きを秦王政に繰り出します。しかし、なんと秦王政はその不意の一撃をかわしたのです。使者は護衛兵にメッタ斬りにされ、怒った秦王は燕に攻め込み、あっという間に燕の国王一族を根絶やしにしてしまいました。
燃える闘魂が遺した教訓
この三つのエピソードを高校時代に知った私は、「男たるもの、突然、暴漢が襲ってきてもそれを一撃で倒せる武力や武術を身につけるべきだ」と悟ったのです。そして、私は高校一年生の時に、極真空手に入門しました。学業の道を歩んでいた私が、想定外の行動に出たのです。親は驚いたことでしょう。
「どれほど勉強ができるようになっても、目の前に現れた暴漢一人に対処できないようでは男の人生としては失格である」という思いからでした。
私が極真空手の稽古に励んでいた時、全盛時代を誇って若者の心を鷲掴みにしていたのが、プロレスラーのアントニオ猪木さんでした。
鍛え抜かれた身体だからこその様々な技を繰り出して、派手なダメージを与え合い、ファイトむき出しで戦う姿に大勢の若者が熱狂し、あこがれを持ちました。
いうまでもなくプロレスはそれ自体が「ショービジネス」ですが、そのショーを通じて伝わってくる何かに凄まじい価値がありました。私には、アントニオ猪木さんはプロレスを通じて教訓を与え続けてくれる教育者に見えていました。猪木さんの言葉で、私が大きな影響を受けた一節があります。
「人は何を与えられたかで決まるのではなく、自ら何を欲したかで決まるのだよ」
新日本プロレスのエースの座をめぐる藤波辰爾さんと長州力さんを振り返って、猪木さんがしみじみと語った十数年前の言葉です。
「与えられるのを待ってはいけない」
「自ら欲して獲得していく」
「与えられて喜んでいてはいけない」
教訓に満ちています。
一方で私は、「与えて奪うことなかれ」を信条としていました。「施して与えることがあっても、決して奪おうとしてはいけない」という信条でした。その信条と猪木さんの言葉を対比して、さらなる深みへと教訓を進めた思い出もあります。
また、猪木さんは、「バカになれ」とも言っていました。その解釈に苦しむ人が多いようですが、私にはすぐにわかりました。「損得勘定をするな。正義感と使命感だけで動け」の意味です。
改めて思い知らされた現実
そんな猪木さんがお亡くなりになりました。享年79歳でした。
全盛時代の活躍に熱狂し、ファイテイングスピリットと不屈の闘志に興奮し、意欲と勇気を注入された私には、「人は死ぬ運命にある(Man is mortal)という真理、「人はいつかは死んでこの世から消えていく」という現実を改めて思い知らされました。
「人はこの世にポッと現れて、やがてポッと消えていく」
一時的にこの世に現れただけ、それだけの人生に過ぎません。自由を謳歌した人生だったのか、虐げられた人生であったのか、楽しみ尽くした人生だったのか、苦しみ抜いた人生だったのか。人生には様々な思いが残りますが、結局は死んでしまいます。
とはいえ、人生は最終的に二つのうちどちらかであったという結果が残ります。無名のままで人類を継続、存続させるためだけの人生だったのか、後世に残る名声を得た人生であったのか、そのどちらかなのです。
猪木さんは、その全盛時代の活躍を知る者の人生に影響を与えて、名声を残しました。後世にも、その名声を残したいものです。
迷わず行けよ、行けばわかるさ
私は二千五百年前に「孫子の兵法」「論語」を残した孫子、孔子、孟子に憧れています。その二冊の内容は、現代の人の生き方、行動体系、事業手法にも大きな影響を与えています。私も、二千五百年後にも人の心を打つ何かを書物にして残したいと思っています。
アントニオ猪木さんの引退スピーチを引用します。
この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ。行けばわかるさ。
さぞかしハチャメチャな人生を楽しんだことでしょう。
「健康管理の学問化」という旗を揚げ、すべての先輩たちから「そんなものは不可能だ、内科医が健康保険を捨てて何ができる」と言われた中で、バカな人生を送り、内科領域の自由診療を開拓してきた私にはその意味が深くわかります。
迷わずに行きなさい。行ったものだけがわかる世界があります。行かなかった者は行った者を評論してはいけません。行ったものだけが語ることを許されるのです。