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月刊メディカルサロン「診断」

成長の秘訣は、底辺を絞ること・・・新社会人、国家への提言を含めて掲載日2024年5月28日
月刊メディカルサロン6月号

「ボクシングの法則」

私は若い頃から、「成長」という単語をよく用いてきました。「成長するかどうか」「成長できるかどうか」を思考の原点に置くことを中心としてきたのです。だから、いつの間にか私の元で働く従業員達も、「成長」をキーワードとするようになっていました。
最近、新社会人たちのキーワードが「成長」になっているそうです。入社した会社で、自分が成長できるかどうかを中心に考えるようになっているとのことです。安っぽい使い方だなあと思いながらも、全体として喜ばしいことだと思っています。

この「成長」に関して私は、「ボクシングの法則」という用語を用いることがしばしばです。「ボクシングの法則」と聞くと、どのようなものを連想しますか?「徹底的に叩きのめす」を連想したら大間違いです。
ボクシングには様々なルールが設けられています。「頭突きをしてはいけない」「肘打ちはダメ」「蹴ってはいけない」「投げ技はダメ」「トランクスより下をたたいてはダメ」など、ダメダメだらけです。「グローブをつけた手でのみ相手を倒す」というのがルールです。そして、「3分間戦ったら1分休む」もルールです。このルールを厳格に守る中で戦いが繰り広げられます。単に相手を倒すだけなら、戦いの中で「ここで一発、頭突きをくれてやる」「ここで一発、下段蹴りを食らわせてやる」の瞬間などいくらでも存在しますが、決してそれらをすることはありません。「あれはダメ、これはダメ」がたくさんあるから、「グローブをつけた手で相手を倒す」の技術が向上します。そして、その戦いには美しい芸術性が伴うため、人気スポーツで人気格闘技となります。

底辺を絞る・広げるとは

「あれはダメ、これはダメ」を「底辺を絞る」と表現します。そして、技術が向上し芸術性が伴うことを「成長する」と表現します。「あれもやろう、これもいいじゃないか、これもできそうだ」とするのを「底辺を広げる」と表現します。「なんでもあり」で闘う代表が「喧嘩」です。その闘いには何の美しさも存在しません。底辺を広げる中で成長を目指すのは、まず不可能なのです。底辺を絞ってこそ、成長の源となります。つまり、「こんなことはやらない、あれには手を出さない」を自分のルールで決めてこそ、成長の芽が生まれます。新社会人には、そこまで考えた上で「成長」という単語を用いてほしいものです。

「底辺を絞る」-私の経験から

私が中学生の頃、インベーダーゲームというものが流行りました。子供たちが熱狂するゲームの先駆けです。私もそのインベーダーゲームに熱中しそうになりました。しかし、インベーダーゲームに心が入り込めば入り込むほど、学業に対する執念、思い入れが薄くなることに気づいたのです。学業に取り組む精神構造の何かが壊れていくのです。「そんなことでいいのだろうか」を自問自答する中で、「インベーダーゲームは決してやらない」と決断したのです。心がゲームの虜になっていましたので未練がいっぱいでしたが、決断してやめてしまえば、間もなく、熱中している人たちに対して「バカじゃないか」と思うようになっていました(失礼な表現で申し訳ありません)。このことが、自分の意思で決めた「あれはしない」「あれはダメ」の人生初体験だったように思います。おかげで、勉学に集中して学業成績を伸ばすことができました。
高校生の時、私は国語が苦手でした。どうしても性(しょう)に合わなかったのです。勉強しても成績につながりません。大学受験までの時間は限られています。そこで「国語は勉強しない」と決断しました。数学、英語、物理、化学だけで勝負すると絞ったのです。限られた時間の中での勉強でしたので、国語を捨てたことは気分の重さを消失させ、他の4教科への集中力を倍加させました。結局、国語の成績を重視していた東大や京大の医学部は駄目で、慶応大学医学部になりました。あの時、国語を捨てる決断をしてよかったと心の底から思っています。「国語を捨てて、数学、英語、物理、化学に集中する」は、まさに「底辺を絞る」です。余談ですが、大学入学後は「国語が苦手だった」という過去への劣等感を解消するために、国語的なものには心を入れて取り組むようにしました。
後に書籍を執筆してベストセラーまで出すようになったことを、教育現場的にはどう解釈していいのかわかりません。

底辺を絞ってこそ成長がある

私の意識のうちでは、「成長のためには底辺を絞らなければいけない」の法則は、大学生の頃に固まっていきました。その法則を「ボクシングの法則」と名づけたのもその頃です。当時は、その法則を文章で表現することができませんでした。つい最近になって、この本文のような文章で表現できるようになったのです。

平成4年、私が慶応病院の内科外来を担当している頃に「病気でない人への医療」「病気にならないようにするための医療」に目覚めた時、進むべき道に苦慮しました。積極的予防医療、アスピリンの衝撃、健康管理指導、説明不足の解決、薬漬け医療の解決、健康教育、高齢者社会の医療方針など、健康保険の枠外の医療のキーワードはたくさんあってその未来は無尽蔵に見えましたが、それらを成長させていくための土台体制をどうするべきかで苦慮したのです。底辺を絞ることが成長の土台です。最も悩んだのは、医師に莫大な恩恵を与えてくれる健康保険を取り扱うべきかどうかでした。
私が対象とするのは、「病気でない人」です(病気の人に対しては、優秀な先輩、同輩、後輩に任せることができます)。「病気でない人」には健康保険が適用されません。だからといって、健康保険を捨てていいのだろうか?未知のものに取り組んでいくのだから、自分の医療の道そのものが健康保険に戻ってしまう可能性も大きい。併用する道を選択した方がいいのではないだろうか。ずいぶんと悩んだものです。
しかし、「底辺を絞ってこそ成長がある」です。決断一発、健康保険を捨てることにしました。内科系自由診療の一本に絞ったのです。
私が自由診療一本に絞ったことに対して心無い人たちは、「その方が儲かると思ったからだろう」などと言っているようです。物事の本質がわからず、お金にしか関心を持っていない人の一言です。
「健康保険を捨てて背水の陣で立ち向かった」のおかげで、ダイエット医療、プラセンタ医療、成長ホルモン医療、子供の背を伸ばす医療などを開拓することができたのです。

おわりに

日本の政治は混乱を極めています。国家の未来像が見えず、政治がどうあるべきかに皆が困惑しています。政党どうしで争って、「こうやって蹴落としてやる」「ああやって不評を与えてやる」など、政治活動ではなく政治闘争に明け暮れています。底辺を広げてしまうからそんな政治に陥るのです。これらはすべて、日本の国会議員の在り方の底辺が絞られていないことの弊害です。
国会議員の一人ひとりが「国から給与を与えられている3人の秘書」とともに、国家から支給される自分への給与報酬や文通費などの費用や交通移動のメリットだけでやり抜く。献金や党からの政治活動費など一切不要。その底辺の中で知恵と工夫を繰り返して、「金が欲しい」「金が必要だ」「政治には金がかかる」など一切言わず、自分を磨き成長させ、国家のために尽くすと決断したなら、格段に優れた政治体制になり、国家が抱える諸問題は解決されていくだろうと思います。

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