月刊メディカルサロン「診断」
創業者、経営者としての心の変遷掲載日2025年1月31日
月刊メディカルサロン2月号 (前編)
何かを志して、その実現のために、人を集めて人間集団をつくる。それが創業者&経営者の第一歩目のように思います。人を集めず一人ぼっちでスタートして一人ぼっちを貫く、という創業もありますが、それを経営者といっていいのかどうかわかりません。一人で独立しているコンサルタントや作家などは、その類になるように思います。
ところが、一人ぼっちで飲食店を経営している人もいます。ワンオペなどと言われるのですが、それは経営者の類になります。
結局、分類するのが難しいのですが、今回は、創業者、経営者として、ある志の実現のために人間集団を作り、その人間集団を率いて活動してきた私の心の変遷を思い起こしてみたいと思います。
35年前の医療現場
平成2~4年のバブル崩壊直後の頃、世間は医療社会に対して大きな不満を持っていました。「待ち時間が長すぎる」「説明してくれない」「検査漬け、薬漬け」などです。しかし、患者は現実的に病を抱えて、それを治療してもらっている立場ですので、大きな声で不満を述べることができません。この問題は、マスコミ主導でクローズアップされたのです。
特に、説明不足が大きな問題でした。その不満を与えてしまう最前線で私はその張本人として仕事をしながら、患者たちに対し「このままではかわいそうだ。なんとかしてあげたい」という気持ちは持っていました。しかし、現場の勢いに流されて、それを実行する気にはなれません。その心の中には、「すべての患者を公平に扱わなければいけない」という健康保険制度の大原則も存在していました。
「大勢の患者を一つの窓口で対応していく。そして公平に扱わなければいけない。当然、1人ひとりの密度は極端に薄くなる。だから、説明不足はやむを得ないのだ」という理屈を大義名分として、その現場においては説明不足を改善しようという気分にならなかったのです。現場の医師の皆がそういう気分だったと思います。後になって、「説明不足という現実は、個人の医師の責任に帰するのではなく、医療構造上の責任に帰する」と表現するべきものなのだと気づきました。大病院への一極集中が大元原因ですので、患者を中小医療機関に分散させたいという医師会の思惑と厚労省の方策が一致し、およそ十数年後この問題は急速に改善の道を歩めました。
志と夢 いざ、創業!
平成2年の末頃、私は大学病院の病室である患者と出会いました。その患者は自身の人生の成功談義を語ってくれるのですが、その話が面白くて、時間のことを忘れてついつい聞き入ったのです。そして、その患者は自分の身体のことに関して、いろいろ質問してくれました。それに丁寧に答えているうちに、私はふと思ったのです。「身体のことを教えてあげるのはとても楽しい」でした。
「この話をするにあたっては、必ずこの部分が理解の障壁になる。その障壁部分に向かって、このように話を進めれば、障壁にならないですむ。だから、ストーリー展開のここを工夫して教えてあげよう」というのが瞬時に頭の中で組み立てられるのです。その患者も、「先生に尋ねると説明が面白いよ。ついつい引き込まれる。先生はその辺の天才だね」と言ってくれました。おだてるのが上手な人でした。場所は、慶応病院のVIP病棟と言われるところです。結局、今思えば、この密室(?)での「出会い」の一瞬が人生の転機になっています。この出会いがなければ、私は平凡にどこかの大学教授を目指す道を歩んでいたように思います。
その時、同時にあることを悟った気分になっていました。大勢の患者を公平に扱うのが健康保険制度の大原則。でも、ここはVIP用病室。すでに公平ではない。世の現実がそうなっているのに、「公平」を大義名分として、目の前に存在する説明不足という問題を解決しないで見逃すのが正義なのだろうか?決して正義ではない。
その思い(志)と「アスピリンの衝撃」に端を発する積極的予防医療の学問構築の夢が合体して、慶応病院の近くのマンションの一室を借りて、研究室のつもりで、創業したのです。
「出費は予想の3倍、収入は予想の半分」
「医師との友誼関係」を土台として、家庭教師風に人体のことを教えてあげて、同時に積極的予防医療を活用して、重大な病気にかからないように見張っていく、を実現するために「プライベートドクターシステム」を看板にしたのですが、それが容易に成功するほど世の中、甘くはありませんでした。「それは素晴らしい」と語る人はいても、入会する人はいないのです。
「これはまずい。貯金がみるみる減っていく。食っていけるのだろうか」という不安がありましたが、それは瞬時に「他院でのパートや当直で食っていけばよい」に置き換わり、また、当時大学院生であった私は、「課外活動の一環にすぎません」とうそぶいて、卒業と同時に通常の医師のコースに復することも脳の片隅をよぎっていました。今思えば、無茶、無謀な話ですが、それこそ「若気の至り」ではなく、「若気の強み」です。
私は若者の活動に対して、恐るべき寛容力を持っています。まだ年端もいかない若者に大きな仕事を任せたりもします。若者にドドンと投資してあげることもあります。この若者への寛容力が後に多店舗展開につながるのですが、当時は、それどころではない必死の思いがあるだけでした。なお、この時期に、私は創業者の心得となるであろう重要な悟りを開いていました。それは、「出費は予想の3倍、収入は予想の半分」という法則です。この悟りに基づく事前計画本能が、事業遂行の銀行借入を一切行わないで組織を成長させていく、ということを可能にしてくれました。
思いとは裏腹に・・・
プライベートドクターシステムの旗を立てたのはいいものの、四苦八苦の運営でした。そんな矢先に、体重100㎏を超えるある人が現れて、ダイエット指導を行ったのです。そして、これが思わぬ売上になることを悟りました。同時に、ダイエット指導という医療が医学界でまったく未熟であることに気づきました。
そこで、「ダイエット指導に取り組むか」という思いになれば普通なのですが、そうはいかないのです。私はプライベートドクターシステムという高尚な旗をたて、積極的予防医療の学問化を謳っています。ダイエット指導を行って、「ダイエットの先生」と言われることに、強い抵抗があるのです。「ダイエットの先生と言われるために独立したのではない」という思いが心の中を支配して葛藤の日々になりました。しかし、現実には勝てませんでした。「ダイエット指導を遂行する」という屈辱的な判断をするしかありませんでした。まさに、その判断は当時の私には屈辱だったのです。
しかし、遂行してみると、これがけっこう面白かったのです。当時の大学病院の医療では、「食べる量を減らしなさい、運動しなさい」しか、指導できませんでした。相手の心の中に強烈に食い込むような指導体系が存在しません。医師は口先で「運動しなさい」などと語っているだけでした。しかも、体重変動の原理には意外な奥深さがありました。
ダイエット指導を行うシステムを「ウェイトコントロールシステム」と名づけました。希望者がポツポツやがてどんどん集まってきたのです。そんな矢先、千駄ヶ谷に住むNさんが何かの機会で教えてくれました。
「先生は素晴らしいビジネスモデルを展開している。プライベートドクターシステムを看板にあげて、その実は、ウェイトコントロールシステムで収益を確保している。このモデルに関しては、プライベートドクターシステムをリーダーターゲット、ウェイトコントロールシステムをリアルターゲットというのですよ。リーダーターゲットで信用を得ることができるから、リアルターゲットが集まってくる。先生が、ダイエットシステムだけをやっていたら、ダイエット希望者は集まりませんよ。先生は上手なビジネスをやっている」
その話を聞きながら私はほろ苦い気分でした。医療社会の現実の中で、困っている人たちの一部を救うためにプライベートドクターシステムを興した。その中でやむを得ない事情があり、屈辱的な気分の中でダイエット指導を開始した。それに対して、「上手なビジネスモデルを作った」と言われたのです。そのときの状態から見ると、人々は「ダイエット指導がメインで、それに信用をつけるためにプライベートドクターシステムを後付けした」という風に見えるのだなあ、と悲しい思いを持ったものです。
なにはともあれ、その時、私はまた一つのことを悟りました。「社会に対して、4歩5歩先のことを語っても、人はついてきてくれない。1歩2歩先でないと事業化できない」ということです。4歩5歩先の話は人々に感銘を与えることはできます。しかし、人々は動いてくれません。1歩2歩先のことに対しては、人々は動いてくれます。4歩5歩先のことを現実のものにするためには、長期間の執念の努力が必要である、ということです。ふんどしを締めなおす気分になったものです。
風本式ダイエット指導
さて、ダイエット指導においては、食欲抑制剤のマジンドールを使用します。この薬を利用して、ダイエットの法則、つまり体重管理学を教育するのです。薬を処方するだけでは、得られる効果は限定的です。短期間の薬の利用で末永い効果を得られるような教育啓蒙が伴わなければいけないのです。何を教えなければいけないかを見据え、それを仰々しく教えるのではなく、楽しい会話の中で教えていくのです。マジンドールは3~4ヶ月以上連続して内服すると効かなくなります。つまり、期間限定です。この期間限定の中で何を教えるか、そして学んだことをどうやって生涯にわたって活かしてもらうか、を考えて指導を施すのです。
最近、飲み続けなければいけないダイエット薬が出ています。一度処方されて内服を始めると、体重は減っていきますが、その薬をやめると元に戻ります。つまり、飲み続けなければならず、何の教育にもなりません。美容外科の望みに合うようで、美容外科医院でよく処方されています。しかし、私がこの類の薬を処方することは決してありません。人の堕落を推し進めるだけだからです。
退路を断って
平成7年春、私はクリニックをマンションの一室から新宿通り沿いのビルに移転しました。大学院卒業と同時に通常の医師のコースに戻る道を断ったのです。教授と熾烈な話し合いになったのは言うまでもありません。初めて、教授に反論するということもしました。初めての反論を受けて、教授は驚いたようですが、ここではそれは述べません。
移転した頃、私は、「積極的予防医療」という語よりも、「健康管理学」という語を好んで用いるようになっていました。その中の体重管理学という位置づけで、全体を学問の中におさめ、「ダイエットの先生」になった屈辱的な気分は失せていたのです。
さて、当時、エステ業界がダイエットに関して大混乱の時代になっていたのです。平成5年、6年の頃にインドエステが大流行し、「身についた脂肪がグニョグニョ移動する」的な文句で「みるみる痩せる」を謳って莫大な集客を成し遂げていたのですが、実はダイエットに成功するはずがなく、単なるボディマッサージであることに顧客が気づきだしました。100万円、200万円のコースもざらでしたが、当時はチケット前売り販売を行っており、有効期限内に予約もなかなか取れず、無効になったチケットが顧客の手元に大量に余ってしまうという事態も発生し、顧客からは返金を求める大合唱が発生したのです。