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月刊メディカルサロン「診断」

「尊敬」の法則掲載日2026年6月23日
月刊メディカルサロン7月号

見たことのない人生は選べない

クリケットというスポーツがあります。競技人口は世界で約3億人を超え、ファン人口は約10億人を超えているそうです。1チーム11人でフィールドの中で2チームが競い合い、試合中にはティータイムもあって「紳士淑女の優雅なスポーツ」とされているそうです。
さて、みなさん、突然に何やら道具を与えられて「クリケットをやってごらん」と言われたとき、プレーすることができますか? ほとんどの人が「どんなことをしたらいいのかわからないからできない」と答えるのではないでしょうか?
見たことがないスポーツをやってごらんと言われても、できないのです。口頭でいくら説明してもおそらくできません。しかし、その競技を実際に観戦すれば、できるような気がしませんか?
何事も具体例を見なければイメージがわかず、何をどうしていいのか、どんなときにどうしていいのか、どんなときにどんなふうになるのか、がわからないのです。具体例を見て初めて「見様見真似」でもそれを実行することができるのです。たくさん見れば見るほど、どんなときにはどうしたらいいのか、どんなときにどうするべきなのかがわかるのです。
子供に「立派な人生を送りなさい」と言ったら、子供は何のことかわからないまま「はい」と答えます。基本的に子供は、父、母など身の回りの人の「今」しか知りません。
クリケットの話と同じで、子供には、いろいろな人の人生の具体例を見せてあげなければいけないのです。つまり、父、母の人生を語ってあげ、さらに多くの人の「伝記」を読ませてあげなければいけないのです。私は小学1年生か2年生のときに、教室の後ろの棚に置いてあった「エジソン」という伝記を読んで「そんな人生を送りたい」と思ったことをふと思い出します。以後、歴史上の人物の伝記や伝説を大量に読みました。
スマホにふけっている子供たちを見ると、そのスマホから伝記や伝説を学べているのだろうか、とふと心配になったりします。

教師を志す青年の覚悟

近年は、若者の性の自由化が進んでいるそうです。私がたまに聞いて驚くのは、「ラブホテル代が男女割り勘になっている」「身体の関係ができていても、付き合おうという話で合意していない限りは恋人関係ではない。いわゆるセックスフレンド(セフレ)である」という話です。
先日、ある19歳の大学生と会話する機会がありました。なかなかの好漢です。
「最近は、女遊びをしやすい時代になっているそうだね。いい男はセフレを数人持っている、という話を聞くけどどうなの?」と尋ねてみました。彼は、毅然と答えました。
「私は教師になることを志しています。他の人のことは知りませんが、愛する女性一人を見つけて、その人とのみ生涯にわたって付き合っていく。それしか考えていません」
その立派な答えに、私は感心して感動しました。教師という職の生きざまを頭の中で描いているから「教師、どうあるべきか」を語れ、自分の確固たる人生方針にしているのです。教師を志す者はおそらく皆、そのような心構えを持っているのでしょう。教師は、生徒やその親から尊敬されていなければいけません。それを念頭に置いて彼は学生生活を送っているのです。
人間集団があれば、どんなに少ない数でも一定の割合で道を外している者がいます。児童に対する教師の性的不祥事もその一つですが、それをマスコミは鬼の首をとったかのように取り上げます。教師という聖職を汚す話は視聴率を稼げるのかもしれませんが、たった一人の道を外した者が存在すると、視聴者は「皆がそうなのだ」と錯覚させる恐れがあります。一方で、マスコミは、健康食品のコマーシャルを見てわかるように「たった一人の体験談」が見せるのに非常に有効であることを知っています。
「一罰百戒」「公の利益」を大義名分にマスコミは報道しますが、単に「一罰百戒」「公の利益」の名を借りたストレス発散、妬み解消のように思えます。マスコミは、自らの手で報道タブーを設けて、守るべき分野を守らなければいけないということを念頭においてほしいものです。

人はなぜ尊敬されるのか

「歴史上の人物では誰を尊敬しますか」と尋ねられることがあります。しかし、この質問そのものが実は間違えています。尊敬というのは、その人の人格に触れることを前提として感じ取る思いだからです。歴史上の人物に対しては、直接的にその人格に触れていないので「歴史上の人物では誰が最も偉大だと思いますか」や「歴史上の人物では誰が最も好きですか」という質問にしなければいけません。そんな話はさておき、「尊敬」という語に注目したいと思います。
どのような人が尊敬されるのでしょうか? 職種に対する尊敬というのはあるのでしょうか?
たとえば「あなたは弁護士を尊敬しますか?」と言われたら「弁護士だからといって尊敬するわけではない」と答える人もいますし、「弁護士になるための勉強をし、その過程では他にやりたいこともあっただろうけどそれを我慢して努力してきたのだから、一応、尊敬できる」と答える人もいます。この場合は、その弁護士個人の人格に触れたわけではないですので「尊敬に値する」という表現が正しいかもしれません。
「国会議員を尊敬しますか?」「大企業の社長を尊敬しますか?」「医師を尊敬しますか?」などを次々と考えていくと、各個人の問題になりますので「そういうわけではない」になるのですが、では「古代ローマの貴族は尊敬しますか」と言われると、ムムムと考え込んでしまいます。
古代ローマの貴族は、実は兵士でもあったのです。日常においては貴族として優雅な生活をしていたのだと思いますが、いざ戦争となれば、国を守るために最前線の兵士となって戦場で戦う身分でもあったのです。
「命を捨てる覚悟を持って国を守るために戦場に出る」。その部分は、尊敬に十分に値するような気はするのです。
中世日本において、絶対的に尊敬されていた職種があります。その職種だけは、今でも特別な扱いがあるように思います。
それが「僧侶」です。識字率の低い中世における学識の高さも尊敬の因ですが、何よりも「修行してきた」という経歴が尊敬に直結します。悟りを開くために、欲を捨て、「あれをしたい」「これをしたい」の俗的な思いと決別し、辛い苦しい修行をしてきたのです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と述べて、燃え盛る炎の中で座禅を組んでお経を唱えながら、微動だにせず焼け死んでいった快川和尚の姿を思い起こします。小説的要素もありますが、それに近い事実も存在したであろうことは推測され、僧の心得として尊敬せずにはいられません。

結果よりプロセス

何かを自己に課して鍛錬している姿を連想します。それを乗り越えているから尊敬されてきたのでしょう。
そのように考えていくと、尊敬されるためには「こんなことを成し遂げた」「あんなことをやってのけた」という結果よりも「世俗的な欲に流されることなく、我慢、努力、辛抱で修業的な生活を送ってきた」という経歴が必要なように思うのです。そこに「命をかけて」がつくと、尊敬のされ方は高まるように思います。

トランプ大統領は尊敬に値する?

トランプ大統領は尊敬されるのでしょうか? 「ああ言ったり、こう言ったり」が目立ちますが、イランとの戦争中は、まさに「兵は詭道なり(戦いは騙しあいである)」でありますから、事実に基づく発言など必要はなく、戦いを有利に導くための発言が並んで当然です。そんな部分を割り引いて考える必要がありますが、「尊敬に値するかどうか」の判定は難しいです。まさに幾度かの暗殺未遂があることから「命を懸けている」のは間違いなく、真に私利私欲を捨ててアメリカ国家の未来のことを考えているなら、その行動の正誤はともかく尊敬に値するように思えます。しかし、私利私欲的要素の関連も否定できない可能性があり、なんとも言い難いです。
彼がほぼすべてのアメリカ国民から尊敬されるためには、ある一つのことを行えば、皆が納得して尊敬されると思います。その一つのこととは「死後の全財産をアメリカ国家に寄付すること」です。強い名誉欲を持っているようですので、彼はやるかもしれません。もちろん家族の抵抗にあうでしょうが。

美しさと尊敬は別物

尊敬と言えば、私は今の時代に一つの気がかりを持っています。
それは、美容外科系医療の大流行です。受診を望む人が大増加したから、美容クリニックがやたらと増えているのです。
鼻、顎、目の周り、脂肪吸引などが手術部門ですが、それ以外にヒアルロン酸注入などの各種の局所注射があります。
確かに、他人から見ても「そこは整形したほうがいいよ」とアドバイスしたくなることはあります。美容整形の技術でそれに取り組むことには問題を感じません。しかし、ただの美容欲、自己満足、まだ若い年代での加齢に伴う自然の衰えに対する修復欲で、やりすぎが目立っています。借金をしてまで取り組もうとするのが問題です。女子の美容に対する欲求は、男子の風俗遊びに対する欲求に似ています。価格設定もそっくりです。こだわりだしたらきりがないところも似ています。
風俗通いが過ぎる男子に対して、女子が肯定的気分を持てないように、若い世代の女子たちが、美容外科技術に過剰に期待し借金をしてまで頼ろうとしていることに、どうしても肯定的な気分になれません。その背景は、まさに「尊敬できる・できない」と連動します。

尊敬は制約の中の努力から生まれる

ボクシングを見てください。蹴ってはいけない、投げてはいけない、頭突きしてはいけない、肘うちしてはいけないなど、定められたルールが徹底しています。グローブをつけた手だけで相手を倒さなければいけないのです。底辺としてのルールが明確になると、その範囲の中で様々な努力や工夫がなされ、上に伸びていきます。
物事は「この底辺の範囲を定めて上に伸ばす」ということが重要になります。ボクシングは、この底辺の定め方が適切ですので、努力して上に伸びていく様子に美しさが伴い、その戦いには一種の芸術性を感じることができます。ボクシング人気が衰えない理由です。
親から与えられた身体があり、その身体の範囲で「身体の内側からキレイを目指す」「内面を高めて品性を伴わせる」の努力で自己を向上させることには尊敬の念を感じますが、身体そのものをいじることに借金をしてまでの費用をかけていることには、なぜか尊敬を感じることができません。本人には大きな悩みがあることですからやむを得ないかもしれませんが、限度を知るべきだろうということになります。
美容外科美人に対して「きれいになってよかったね」と語る男子には、揶揄している気分がないとは言い切れません。
苦労と努力で成功人生を築き裕福になった人が、晩年に美容外科に取り組み若返った姿を楽しむということには、何の問題も感じません。むしろ推奨したい気分になります。自己の容姿にネガティブな気持ちを持ちながら品性を高める努力をし、一生懸命に仕事して貯金して、美容手術に取り組む姿にも何の問題も感じません。
しかし、まだこれから成功を目指して人生を歩まなければいけない男女が、借金を伴いながら美容外科にはまり込んでいる姿には、決して称賛できない何かを感じます。まさしく「尊敬できない」にいきつくのです。
尊敬の反対は軽蔑です。「無いお金」を使って借金を増やしながら美容外科に取り組む女性に対しては、借金をしながら風俗遊びに浸っている男と同様、軽蔑的気分になってもおかしくはない時代が近づいているように思います。

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