月刊メディカルサロン「診断」
もう一つ求めているものがある掲載日2026年7月23日
月刊メディカルサロン8月号
人はなぜ「食べる」だけでは満足しないのか
「あー、お腹すいた。何か食べよ」
日常の光景です。目の前に食べ物がある状態を求めます。コンビニで弁当を買って食べる場合もありますし、冷蔵庫の食材を調理して食べることもあります。
「外食しよう。どこのお店に行こうかな」
と思ったとき、どんな店を選ぶのでしょうか?
お腹を満たすことだけが目的なら、近所の立ち食いの蕎麦屋や牛丼屋、ラーメン屋さんに行けばいいことになります。しかし、こういうものが食べたい、という思いは日によって変わり、その時に食べたいと思うものがある店を探してその店に行きます。
「こういうものを食べたいと思って、それを食べる」
というだけのことですので、人以外のすべての動物はそれで片が付いています。しかし、なぜか人はそれだけでは満足しないのです。人は飲食の場において、「もう一つ」何かを求めるのです。
「格別においしい」「お腹いっぱいになるまでたくさん食べたい」を求めるのは当たり前で、「こういうものを食べたい」に含まれますので、これは「もう一つ」に含まれません。
「もう一つ」は何を求めているのでしょうか? 求める「もう一つのもの」をまとめてみました。
人は何を求めて店を選ぶのか
一つは、仲間内のコミュニケーションです。5〜6人集まって「カンパーイ」と叫んで、わいわいがやがやとしゃべり合う食事会です。2人でぺちゃくちゃとしゃべり合う会もあります。愚痴を言い合ったり、夢を語り合ったり、ある人の評価を言い合ったりスポーツの話だったり異性関連の話だったり、まあ、話題は尽きません。だんだんと声が大きくなるのが特徴のようです。求めるものは「大声で騒ぎ合う」ですから、それに適した店を選びます。その求めに応じて居酒屋があります。
一つは、リラクゼーションです。あの店の席に一人で座ったら妙に落ち着く、という気分です。一人で自問自答したり、店の板前(オヤッさん、大将、シェフなど呼び名は様々)との静かな会話を楽しんだりします。カウンターをはさんで店主と向き合うような店が選ばれます。そんな店で仲間内で大声でしゃべるマナーしらずのお客さんもときどき見かけます。
一つは、男女のペアで過ごすひとときです。お互いに初めて出会って口説く目的のペアや長い恋愛のカップル、新鮮な夫婦などいろいろありますが、たいていは向かい合って座るテーブルがあって男女ペアに適した雰囲気が求められるので、そのような店を選んでいます。
2〜4人での秘密の会話を求めて選ばれる店もあります。秘匿性が重要ですので、個室の店が選ばれます。一般的な個室から、いわゆる料亭の個室までいろいろあります。
「あなたをこんなに重視しています」をアピールすることを目的として、店が選択されることもあります。最近、流行りの高額のすし店などは選ばれやすくなります。あえて高額な店を選ぶのが特徴です。
ビュッフェというスタイルがあります。一部ではバイキングといったりします。これは店側が大勢の人に料理を出すにあたって便利だから発祥したのですが、社会に定着していますので「もう一つの求めるもの」を満たしているのでしょう。たくさん食べられる、いろいろなものが食べられるは「こういうものを食べたいと思ってそれを食べる」の範疇ですので、もう一つとして「動き回りながら食べられる」「劇場的な楽しみがある」を求めているのかもしれません。
「もう一つ」を考え続ける店が成長する
さて、店の立場では顧客に対して「おいしい料理を提供している」だけではダメなのです。「お客さんにはもう一つ求めているものがある」という思いを持つことが、店を繁栄させる秘訣になります。「不便は発明の母」あるいは「必要は発明の母」といわれますが、「求められているものがもう一つある、という思いは成長の父」といえるでしょうか。
徳川家康は、豊臣家を滅ぼし将来の不安の根を断って徳川の世を安泰化させましたが、死ぬ間際に周辺の者たちに、
「しまった。一つやり忘れたことがあった。その一つはお前たちがきっちりとやり遂げよ」
と言って、その一つが何かを語らずに死んでいった、という話があります。後世の戯作的な要素がありますが、教訓として素晴らしい意味合いを持っていると思います。
「その一つが何であるか」をめぐって、残された人たちは、国家統治に関して必死に考えざるを得なくなったことでしょう。徳川幕府260年余の礎は、案外そんなところから築かれたのかもしれません。
「もう一つ」は人間の本能である
「こういうものを食べる」という目的だけなのに「もう一つ」を求めるのは、罪あるいはわがままなのでしょうか? それとも、人という生き物が持つ本能であり、宿命なのでしょうか?
「栄養のあるものを食べればいいだけ。できるだけ出費を抑えることが肝要。もう一つを求めるのは、わがままであり、そんなものは不要だ」
という主張と、
「そのもう一つが重要。それによって人間社会が順調に回っている。さらにビジネスも順調に回っている。人間社会を順調ならしめるための本能であり、宿命である」
という主張に分かれます。
それらを議論したら、どちらが優勢になるでしょうか? おそらく、「本能であり、宿命である」というのが優勢になる気がします。
飲食の場には、ストレス発散のための会話と情報交換という会話があります。そしてその過程で、話している人の人間性を推察して人間力を推測するという知的行為が実行されています。昨今の接待交際の縮小は、大切なものを失わせているのかもしれません。
「もう一つ」は必要か不要か
「もう一つ求めるものがある」といえば、別の議論として、3つを語りたいものです。
一つは、クレジットカードです。決済機能があればいいだけですが、それなのに「ブラックカードを持ちたい」などを求めます。
もう一つは、時計です。時計は今の時間が正確にわかればそれで十分です。しかし、より高級で高額な時計を持つことを求めます。
さらに一つは、車です。車は移動手段として利用できればそれで十分です。しかしなぜか高級な車を求めます。
それらはすべて自己のステイタスを陰に陽にアピールしたい、という潜在心理の現れです。
ところで、社会法則として、「必要なものは安く、不要なものは高い」というのがあります。絶対に必要な米、水、塩は価格的に安く、不要なものは高級時計や高級バッグで、それらは高いのです。
医療にも「もう一つ」が存在する
医療はもともとこの世に存在せず不要なものでした。老病死の必然に人は従順になっていたのです。しかし、人類の成長に伴い、人にとって塩、水、米と同様に必要なものになった。だから、医療は安く提供されなければいけなくなった。この法則に今、日本社会、というか厚生労働省は苦しんでいます。
さて、「もう一つ求めるものがある」をめぐって、この場で話しておかなければいけないことがあります。私の内科自由診療の創業に関する話です。
平成バブルがはじけた後、マスコミを中心に、「検査漬け、薬漬け」「3時間待ちの3分診療」「説明不足」などで「医師不信つのる」の声が沸騰した矢先の平成4年、私は慶應病院で内科外来を担当することになりました。
外来で患者を診察しながら私は医療に対して、患者には「もう一つ求めているものがある」に気付きました。
「病気になった人を迎えて治療する」が医療機関の役割です。その役割を果たすのが医師の仕事です。医師は長年、同じことをしているのですが、なぜか平成バブル崩壊後に患者の不満が高まり、「医師不信つのる」をマスコミがアピールするに至ったのです。
それは何を意味するのだろうかを考えたとき、私ははっと気が付きました。
「病気を治療してもらう」という過程に、患者側に「もう一つ求めるものが誕生しているのだ」と。
保険診療では満たせない患者のニーズ
医師側にもこの当時、「インフォームドコンセント」の必要性が叫ばれました。「きちんと説明して、その治療の遂行に関して同意を得よ」という機運です。しかし、私は患者の「もう一つの求め」はそんな程度のものではない、と思い至っていました。
患者が「もう一つ求め出したもの」は、自分の治療を含むもっと広範な知識、つまり「健康、人体、医療に関する体系的な知識」であると感じたのです。
平成バブルのころまでは、「健康をすり減らしてでも働く」という時代でした。あるコマーシャルで謡われた「24時間戦えますか? ビジネスマーン、ビジネスマーン、ジャパニーズビジネスマン」がそれを象徴的に物語っています。しかし、バブル崩壊と同時にそれらの思いは燃え尽き、「健康でなければ人生を楽しめない」に変化し、「どうすれば健康であり続けられるのか」「今の病気の実態は何で、今、受けている治療以上にもっといい対処はないのだろうか」を考えるようになったのです。それに伴い、患者は医療機関に対して「知的欲求を満たす」を求めるようになったのです。
となると、診療現場はその知的欲求を満たすために変化しなければいけません。しかし、日本の医療は国民皆保険制度で成り立ち、知的欲求を満たすことに保険点数は設定されていません。つまり、患者の「もう一つ求めるもの」に対して、それを満たせる制度ではなかったのです。
「もう一つ」を形にした自由診療への挑戦
その患者側の知的欲求を健康保険制度の中で満たすことは、未来的に可能なのだろうか。平成4年に内科外来を担当しながら、私は熟慮しました。
かつては、「すべてお任せします」と患者に言ってもらって治療方針の説明など不要であったのに、治療方針だけでなく、広範な医療知識とともに患者にわかるように教えてあげることが健康保険制度の枠内で可能なのだろうか?の熟慮です。
「ある程度までは可能だろうが、患者側が真に求めているものを満たすのは不可能だ」というのが私の直観でした。
人はこの日本で生活を営むのにあたって、必要となる知識はすべて義務教育で学んでいます。「読み書き」「計算」「道徳」「地理」「歴史」などです。しかし、義務教育で学んでいないことで、巨大で複雑な知識……健康、医療、人体に関すること……を求め出したのです。
さまざまに熟慮した結果、「この欲求は本来は不要なものであった。それを満たすのは保険診療の原則である低額ではできない。となると保険診療では不可能だ。健康保険制度内でできないのなら、その制度外、つまり保険外診療、すなわち自由診療になる。それを私が実行してみるか……」
そのように考えたことが、内科自由診療を開業する端緒となったのです。当時、あらゆる先輩や同輩が、「内科医が健康保険を捨てて何ができる。失敗するに決まっている」と話していましたが、なぜか成長させる道を歩むことができました。
来院者とは、莫大な量の会話を積み重ねました。インフォームドコンセントなどの程度ではなく、患者の求めに対して、巨大で興味が尽きない、そしてわかりやすく面白いストーリーで応じるノウハウを蓄積したのです。私の診療現場は、まるで家庭教師の現場となりました。医療にとって、「もう一つの必要なもの」を蓄積したのです。
それを繰り返すうちに、一般の人々が身につけるべき健康、人体、医療の知識の全体像や概要が見えてきました。日本国民が医療に求めているのは、「病気の治療」だけでなく「もう一つ求めているもの」があるのです。それらを健康管理学としてまとめ、それを普及させて全日本国民のために役立てていくことが、今後の私のライフワークになりそうです。
