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月刊メディカルサロン「診断」

食品か医薬品か。サプリメントはどこへ?掲載日2026年9月23日
月刊メディカルサロン10月号

国民医療費が年間48兆円に至っています。その中には、過剰診療と言われる部分も入り込んでいます。
「コレステロールや血圧が高いだけで、毎月通院させる」
「自分で判断して薬局で薬を買えばいいのに、医療機関を受診する」
「別の病院で同じ検査を行う」
「念には念をで検査を増やす」
「末期医療で莫大な費用をかける」
「患者の手元に薬が余っているのに、それを聞き出さないでさらに処方する」
「全額自費負担なら投薬する薬の種類を絞ろうとするのに、保険診療下では絞ろうとしない」
「本人が望んでいないのに、保険でできるからやりましょうと促す」
などは、過剰診療の範疇と言われます。
過剰診療を減らすには、患者への健康、人体、医療に関する教育活動が不可欠です。しかし、その健康教育活動を阻むものがあります。それは、「薬機法」です。
今回は、その薬機法における医薬品、サプリメントの位置づけに関して語ってみたいと思います。

「サプリメント」という語は、今や日常会話で普通に用いられています。ビタミンやミネラルを含め、健康を守るために摂取するものとして、日常生活から切り離せないものになっています。しかし、この「サプリメントとは何か」に関して、法律上、あるいは行政上は明確な定義が定められていません。
人々は、「お腹を満たす」あるいは「味覚を楽しむ」ために食品を摂取しています。医薬品は、「病気を治療する」ために摂取しています。サプリメントは、「健康を守る」「健康を維持増進する」ために摂取しています。
それなのに法律上は、「食品とは、医薬品を除くすべての飲食物」としか定義されていないので、サプリメントは、食品であるか医薬品であるかのどちらかになるのです。

街行く人にインタビューすると、次のようなやり取りが生まれます。
「医薬品はどんなときに使うのですか?」
「病気になったときです」
「病気の予防に医薬品を使うことはありますか?」
「副作用の問題などもありますので、予防のために医薬品は使いません」
「病気を予防したいときはどうしますか?」
「しっかりと睡眠をとる、運動するなど、健康管理に気を使います」
「病気を予防するために何かを摂取するとしたら、何を摂りますか?」
「サプリメントや栄養ドリンクを摂ります」
「医薬品とサプリメントの違いは何ですか?」
「医薬品は副作用が怖い。サプリメントはあまりその心配をしない」

「医薬品該当性」という一本論法

ところで、薬機法第2条により、「医薬品とは人または動物の疾病に対する診断、治療、予防に用いるもので、機械類でないもの」と定義されています。その逆である「人または動物の疾病に対する診断、治療、予防を目的とすれば、医薬品である」とは定義されていません。
しかし、ここに政府は、「医薬品該当性」という論法を導入し、「成分本質だけでなく、形状、目的、表現、説明などをみて、医薬品であるかどうかを総合的に判断する」と定めました。
「総合的に判断する」と言っていますが、医薬品とサプリメントは同じような形状をしています。だから結局は、「疾病の治療・予防等を標榜していれば、医薬品ということにする」とされています。
医薬成分だけではなく、栄養素も必ず人体への効果効能を有しています。人体は、栄養の摂取だけでまず「生きているという効果」を得ているのですから、当然のことです。その成分の効果は、「ある、なし」で語るものではなく、「大きい、小さい」すなわち、大小で語るものです。同時に、ある成分がすべての人に有効であるわけではありません。高血圧の薬として最もよく効くと医師に思われているニフェジピン(商品名「アダラート」)でさえ、80歳以上の人には100人中75人の有効率です(25人には無効)。つまり、「率」という問題があります。さらに、日常の摂取物となっている成分には、副作用の心配は低いのですが、工業的に新たに合成した成分には副作用の問題をしっかりと考えなければいけません。「効果を語れば医薬品」などという単純なものではありません。
もし「総合的に判断する」なら、その成分本質そのものの効果の大小、有効の率、副作用を第一テーマとしなければいけないのです。それにより、医薬品であるかサプリメントであるかが定まり、その次に広告表現の適切性が課題とされます。表現の適切性と言えば、景品表示法、健康増進法の問題となります。
要するに、経口摂取物に関して、「あれ?」と思われる誇大表現を行った場合、景品表示法、健康増進法の問題として扱わなければいけないものを、「医薬品とみなすか、みなさないか」という薬機法の問題に挿げ替えているのです。薬機法の問題にした方が行政上は都合がいいので、サプリメントの概念を導入せずに「医薬品該当性」という一本論法が残っているのです。

問題は「医薬品」ではなく、「誤認」にある

製造工場がサプリメントとして開発製造したものが世の中に流通しているうちに、その販売店の説明により突然、医薬品に化けるのが今の日本の実情です。
腕時計を製造している精密機械の工場が、世に送り出した腕時計を机の上に置いたままにして置き時計として使っている人がいたときに、「あの人は腕時計を置き時計代わりに使っている」と表現するのが普通ですが、「あの人のもとでは、あの腕時計は置時計そのものに化けました。もうあの人のもとで腕時計には戻れません」と言っているようなものです。どんな使い方をしようが、その腕時計はあくまで腕時計です。
では、なぜ「効果効能を語ったものに対して、それは医薬品に該当する」と過敏なまでに主張して取り締まりたいのでしょうか。
主な理由は二つです。一つはガンで死を間近にした人に対して、「これはガンに効くよ」と語って高額な商品を販売する悪質な商法を行う者を取り締まりやすくすること。もう一つは、「私の病気に対して、このサプリを飲んでいたら治るのだ」と思い込んで病院を受診する機会が遅れてしまい、その間に重大な何かが進行してしまうことを警戒していることです。つまり、人が「医薬品を摂取したから問題である」としているのではなく、過剰な効果を期待して、何かを誤認する人が現れるのが問題なのです。
その取り締まりが必要なのはわかります。そこになぜ景品表示法を適用しないで、薬機法を持ち出すのかというと、「効果がない」などを実証するのが大変だからです。効果は「ない」のではなく、たいていは「小さい」のです。多少の効果があるのが当たり前なので、「効果がない」とは立証できないのです。そこでサプリメントであれば、流通過程で何があっても、「効果を述べたから医薬品だ。薬機法で罰する」と言ってしまうことにより、個々の商品の医学的有効性の真偽を詳細に立証することなく、無承認医薬品として取り締まれるようにして、強力な行政・刑事規制として機能させてきたのです。
そして、さまざまな情報入手が易しくなった今の時代なのに、善良に仕事しているほとんどの人に、その概念を適用させています。
「本来、どうあるべきか」を考えた場合、開発製造段階で、食品であるか、サプリメントであるか、医薬品であるかが定まっており、サプリメントであるのに人々に過剰な効果があるかのような表示を行った場合に、景品表示法を適応させる、とするべきものなのです。

変えられなくなった制度のジレンマ

医薬品該当性の概念は、実は医療社会に重大な問題を与えています。それは、健康教育活動が行えなくなり、過剰診療が野放しになることです。「患者側の健康、人体、医療への知識が十分でないことが、結果として医療への過度な依存を生じさせ、過剰診療を発生させる一因になっている」という実態です。
健康教育は、一般人のニーズに応じて「何を摂取するか」につながることが多いので、健康教育実施者が委縮し、実質的に健康教育の遂行は困難になり、国民の健康への悪影響となり、これは大変なことです。
たとえば、「食生活の欧米化と疾病構造の変化と予防対策」というタイトルのセミナーが開催され、あるサプリメントメーカーの開発研究者が講師となり、参加者が大勢いたとします。内容としては、「グリーンランドのウパナビック部落の疫学データ(心筋梗塞が稀)、魚食の減少、血中EPA濃度の低下、カナダの鮭食者の疫学データ(心筋梗塞が少ない)、心筋梗塞の再発予防における医薬品のEPAの効果」などの話をすることになります。
最後に聴衆から質問がありました。
「サプリメントを摂ると、心筋梗塞の予防になるのでしょうか?」
「予防の一助になると思います」
「どこのサプリメントを摂るのがいいのでしょうか?」
「A社かB社のサプリメントがいいと思います」
聴衆に安心、勇気、生活意欲の向上を与えるために、講師はそのように具体的に答えました。もちろん、A社やB社のサプリメントが販売促進されるかなどは眼中にありません。しかし、この講師は、サプリメントの効果効能を語ったので、サプリメントは医薬品ということになり、その宣伝広告を行ったことになるとされ、薬機法の法令違反を犯したことにされる可能性があります。講師と販売者との関係、商品特定性、顧客誘引性などによっては、薬機法違反と評価され得るのです。
診療現場の医師も大変です。診療の一環としてサプリメントを使った際、そのサプリメントと医薬品に相互作用のリスクがある場合は、患者たちに向かってその旨を布告しなければなりません。これは、医療法第1条に定められた医師の義務です。ところが、その義務を果たしていると、突如として薬機法違反だと責められる恐れがあります。
なお、その表示があっても摂取する人は、「心の安心を得たい」などの別の目的で摂取した知的欲求を満たしているのですから、それを取り締まる必要はありません。「このサプリメントは病気を治療するほどの効果はありません。病気の場合は、医療機関を受診してください」の旨を表示して使用者が誤認するのを防げばいいだけにもかかわらず、その方針をとろうとしていません。
長年の行政実務や判例を前提に「医薬品該当性」を柱に据えて取り締まってきましたので、今更その概念を変更するわけにもいきません。制度が運用されてきたため、変更には既存法体系との整合や経過措置を含む慎重な制度設計が必要になり、これは大変なことです。それでも、医薬品該当性の概念は、何としても時代に応じて改めなければいけません。

薬機法の殻を破る突破口

「サプリメント」が日常用語となった今、サプリメントを定義し、薬機法の殻を破らなければいけないのです。それは可能なのでしょうか。
そこで、特定保健用食品の制度を見てみますと、正式に「疾病リスク低減表示」という制度がありました。例えば、カルシウムについて、適切なカルシウムを含む健康的な食事が、将来の骨粗鬆症リスクを低減する可能性を表示できる制度が設けられています。また葉酸についても、神経管閉鎖障害を持つ子どもが生まれるリスク低減に関する表示基準があります。つまり、現在の行政にも、既に限定的ながら「医薬品による疾病予防」とは別の「食品による疾病リスク低減」というカテゴリーが存在していたのです。ここに、サプリメントに対して人々がもつイメージを表現の中に具体化させる突破口があるように思います。
予防と言えば「完全予防」を連想しますが、「疾病リスクの低減」と言えば確率論を前面に出しており、聞く人がとらえる意味がやや異なります。「予防」と「発症リスクの低減」を使い分けることを前提とするなら、用語の定義の問題に帰結しますので、その問題はクリアできるような気がします。

サプリメントを定義し、制度を現代化する

人は、生涯にわたって必要になることは学生時代に学んでいます。しかし、生涯にわたって必要なのに、ほとんど学んでこなかったことがあります。それが、「人体、健康、医療」に関してです。日本は、医療破綻、医療費による亡国を防ぐためにも、健康教育を推進しなければいけないのです。その健康教育に立ちふさがる壁が、医薬品該当性の概念です。
食品のようで食品でなく、医薬品のようで医薬品でない。人々は、健康の維持増進、栄養補給、病気の予防(発症リスクの低減)を目的として利用している。そのようなものに対して「サプリメント」というシンボル用語が生まれたのですから、サプリメントを明確に定義して、その用語がなかった時代のやや強引な論法を現代に即して作り替えてほしいものだと思います。
新用語である「サプリメント」が生まれ、それに人々が何かを期待し、そして日常用語となっている現在、サプリメントを的確に定義して薬機法上の医薬品該当性の概念を突破しなければいけません。「経口摂取物を食品であるか医薬品であるかに二分する」にこだわるのでしたら、「サプリメント型食品」という新造語を作る手もあります。
ある一つのシンボル用語が生まれた際に、抽象的な事象であったものが一気にその用語のもとに具体的なイメージになることがあります。「ストーカー」がその代表です。他人に付きまとわれてなんだか嫌な思いをしている、しかし、具体的な危害を与えているのか、与えていないのかわかりにくい。その抽象的な現象に対して「ストーカー」というシンボル用語が生まれて、そのイメージが一気に具体化しました。今や経口摂取しているものだけでなく、抽象的だったものが「サプリメント」という語のもとに具体化されつつあるのです。

視点を変えて

ここまで述べてきたのは、政府の規制に寄り添いながら、その規制の成り立ち、現状、改良を考えた私の意見です。ここからは、視点を変えた話をしてみたいと思います。
経口摂取物は、人体に影響を与えるのは当然です。経口摂取されたものに対して、人体は消化吸収の活動を起こすので、その活動を起こさせていること自体が影響を与えていることになります。与える影響は、作用とも言われます。良い影響を与えれば、効果、効能と言い、悪い影響を与えれば、弊害、副作用と言います。
人体に与える作用は、「あるか、ないか」ではなく、「大きいか、小さいか」です。そして、弊害、副作用に関しては、「大きいか、小さいか、ないか」になります。人体に与える作用が「大きく」て副作用が「ある」ものに対しては、「医薬品」の呼称が与えられます。だから、医薬品と言えば、一定以上の効果効能があり、何人中何人に有効かという「率」の問題があります。だから、実質的、事実的に「ある程度の効果」であり、それに一定以上の副作用のリスクもそれなりにあると思っていいです。逆に、「医薬品」の呼称がなければ人々はどのように考えればいいのでしょうか? 人体への作用が一定以下で副作用がまずない、と考えることになります。
要するに、国家が与えたその呼称で、人々はふるい分けできるのです。政府が「医薬品」の呼称を与えれば、「効果効能が強い反面、副作用にも注意を要する」と認識し、「医薬品」とされていなければ、「作用は穏やかで、安全性も高い」と大雑把に認識するのです。つまり、製造段階で国家が「医薬品であるかないか」を定めてそれを国民に伝えれば、国民の認識を確定させることができます。それが政府の権威というものです。
政府が製造段階で「それは医薬品である」と定めればそれは医薬品であり、「それは食品である」と定めればそれは食品なのです。それを逆にしてしまい、「効果効能を語れば、それは医薬品とみなす」という論法にしているのが現状で、「その医薬品とみなされたものを広告宣伝したから罰する」として、経口摂取物の効果効能に関して言論封鎖しているのが政府の現状です。
現実的には、人は説明を聞いて試しに摂取してみようと思い、購入して実際に摂取し、自分で感じる手ごたえとして「よい」と感じて、価格との割合が合えば継続しますし、「よくない」と思えばすぐにやめてしまいます。また、検査結果も参考にして人は考えます。
「ガンに効く」などと言われても、医薬品でなければ「効かないだろう」という前提でその商品を見つめることになり、それでも実際に摂取してみて、何かの手ごたえを感じて「継続したい」と思えば継続することでしょう。何かの手ごたえを感じても価格が高すぎると思えば中止するでしょうし、何の手ごたえも感じなければ一回限りでやめてしまいます。

おわりに

政府の立場では、ある定めのもとで高額商品のみ「届け出制」や「許認可制」にして、その商品への監視体制を整えます。届け出や許認可のない高額商品の販売を見つければ、即座に取り締まればいいのです。そして、「紅麹」事件などもありましたので、健康被害の有無には常に気を使っておきます。そうしておいて、正確な健康情報と国民の自己決定の余地を広げます。言論封鎖を解いて、自由闊達に経口摂取物の健康効果を議論できる日本にするべきではないでしょうか?
その自由闊達な議論が可能になると、健康教育が振興し、高額療養の別財源化や過剰診療の抑制という医療社会の課題解決へと議論がつながっていくと思うのです。

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