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月刊メディカルサロン「診断」

メディカルサロン誕生の裏話月刊メディカルサロン1998年8月号

高校2年生(昭和55年)の時、叔父が膀胱ガンで死亡しました。まだ42歳でした。最初は血尿が出ました。おしっこをしたところ、真っ赤なワイン色の尿が出たそうです。

翌日近所の診療所に行きました。検尿の結果、異常ないから心配ないでしょうと言われました。勘違いかなと思いながら1ヶ月過ごしたとき、またワイン色の尿が出ました。次は大きな病院に行きました。「確かに尿に血液が出ています。調べてみましょう。検査を申し込んで下さい」と言われました。検査をしてもらえるまで3週間かかりました。検査後2週間目に診察の日がありました。「すぐ手術が必要です。手続きして下さい」といわれました。1ヶ月後ようやく入院できました。入院後の検査が行われた後、家族が呼び集められ申し渡されました。

「膀胱ガンです。すでに転移しています。3ヶ月もてばいいほうでしょう」

「それはないだろう」と思いました。最初の症状が出てから3ヶ月以上たっているのです。そのあいだに進行したのは間違いありません。最初の診療所で見つけてくれていたら・・・と思うと悔しくて仕方がありません。一族の誰かがクレームを付けたようです。しかし、医学界は巨大な壁として立ちふさがり、まったく相手にしてくれなかったようです。その頃、私は決心しました。「俺は医者になる。こんな無念がないように、せめて一族だけでも守るために医者になるんだ」

平成元年、私は医者になりました。医師になりたてのときはまだまだ机上の知識のみで診療の実際行為は知りません。研修が必要です。慶応病院で普通の研修医を2年間つとめました。未熟な頃ですが、検診などのアルバイトがあり、2~3時間で3万円ぐらいの収入がありました。医師である自己満足とこの条件の良さに気をよくして、叔父のことはすっかり忘れていました。
平成3年、ある縁から私は消化器内科の大学院に進学することになりました。慶応病院での診療と平行して研究活動も行うのです。肝臓病学を研究しました。それはそれでよくがんばり、後に肝臓病学会から「学会の発展に貢献した」として表彰を受けるほどでした。当時、自分は将来は大学教授になるのかなと、平凡に感じていました。
平成4年、29歳の時慶応病院の外来を担当することになりました。異例の若さでした。それに伴い、アルバイトとして外部の診療所や人間ドックの判定医も頼まれるようになりました。その頃に、激怒せざるを得ない出来事が相次いだのです。

ある診療所でのことです。診療所のオーナーがおばさんでした。「先生、今日は◯◯の抗生剤を多く出してください」「血圧の薬を◯◯に代えるようにして下さらない?」そのような要求をされ、私は驚きました。ちょっとした風邪をひいた患者を診察した後には、「先生、ダメじゃない。採血と胸のレントゲンも撮るようにしてくれなきゃ」と怒ってきました。裏では「◯◯先生が来たときは売り上げが少ないんだよね。もっと保険点数をとる方法を勉強してもらわなきゃ」などとひそひそと話していました。
ある人間ドックでのことです。胃の透視検査の判定をするとき「こんな乱暴なレントゲンでは異常の有無なんて解りませんよ」とクレームをつけると、「まあまあ、そうおっしゃらずに。人間ドックの胃透視はそんなもんなんですよ。わかる範囲でお願いします」そうやって、異常なしと言われ受診者は喜んでいるのです。だから、人間ドックで異常なしとされながらも、1~2ヶ月後に胃ガンや膵臓ガンが見つかる人が後を絶たないのです。医師であることの暮らし向きの良さなどの枠を飛び越えて、医療現場への不信は募っていきました。
その頃から、薬づけ、検査づけ、3分待ちの3分診療など医療への問題が多くの人から提起されていました。医療構造上、全体を短期間で改善するのは困難と思われました。そのとき、叔父の亡霊が現れたのです。「身内の健康だけは守ると決意しておまえは医者になったんだろう」そう語りかけてきたのです。

知人の医療、健康の相談に積極的に答えるように努力しました。その人の健康を守ると強く決意すると、これまでと違う医療が見えてきました。近所の病院でたくさんの薬をもらっている人が、私と1ヶ月に1回の割であっているだけで、薬不要の身体になっていきました。薬づけから救うことが出来たのです。近所の病院で「子宮ガンです。手術しましょう」といわれた人を引き受けて調べた結果、手術不要であることがわかりました。彼女はうっかりと子宮をとられてしまうところを救われたのです。

「心臓にペースメーカーを入れなければなりません」といわれた人が大阪にいました。私が中心になって調べた結果、ペースメーカーは不要と判定されました。不要なペースメーカーを入れられないですみ、その人は5年たったいまも健康トラブル起こらず元気です。「入院してすぐに検査治療が必要です」といわれた人が「甥(私のこと)に医師がいるので相談してみます」と答えたところ、「ま、すぐ入院というわけではないですが・・・」と言葉をにごされることもあったようです。

医師のモラルが低下し、医療はいろんな意味で変革期を迎えています。そんな中で、「なにはともあれ、自分の知人の健康だけは徹底的に守る」と思ったのがメディカルサロンの誕生の真説です。「健康管理を指導する」がテーマとなったのは後の話と言えましょう。

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