月刊メディカルサロン「診断」
ゆとり月刊メディカルサロン1999年8月号
先日、あるセミナーで妙な質問を受けました。
「最近の新聞を見ていると、雇用問題を中心に、若い世代に不安が広がっているそうです。その問題について、先生はどう思われますか」
私のセミナーは健康の話が中心です。このような、経済、社会に関する質問を受けたのは初めてで、なにか格好のつく返事が必要です。とはいえ、私は政治家ではありませんから、雇用不安の解決法などで期待に添う返事をすることは困難です。ちょっと違う視点で語ってみました。
企業側にとってみると、企業に利益をもたらす社員なら、たくさん欲しいわけです。自分の雇用を心配しているのは、自分が会社に利益をもたらすことができていない、という現状認識の裏返しであるように思います。そしていまさら、会社に利益をもたらすことができるように努力しても、もう認めてもらえないという開き直りも存在しているのではないでしょうか。
最近、その話題に触れるごとに、バブル経済の頃に「ゆとりが大切だ」と叫ばれていたことを思い出します。あのころに、「ゆとり、ゆとり」と叫んで、怠けることを考えていた人達が、その返礼を受けているだけではないでしょうか。あの頃に必死の努力をした人達は、決して雇用不安に悩んだりしていないでしょう。社会の問題というより、個人の人生観から生まれた問題、もっとつきつめると、人生をいかに生きていくかという思考が不足している人に生まれている問題であるように思います。と一応、わかったような、わからないような答えを出しておきました。
そのとき、なんとなく使った「ゆとり」について考察してみました。ゆとりを分析すると、金銭的ゆとり、精神的ゆとり、時間的ゆとりの3つにわかれます。
金銭不足で、時間だけあるのは、今の社会の大流のなかでは、老後不安も含め、精神的に苦しいものでしょう。お金を十分に持ってはいても、精神的なゆとりを持てなければ、友ができません。友ができなければ、人生の後半は、また苦痛であろうと思います。金銭的に成功しても、時間的ゆとりを手に入れられなければ、何のために金銭的ゆとりを手に入れたのかわかりません。結局、この3つをすべて獲得して、真にゆとりがあるというべきでしょう。
メディカルサロンの会員でも、この3つのゆとりを獲得している人には、独特の余裕が備わり、新たに大勢の友ができています。
私自身、今までの人生を振り返って、「あの頃はゆとりがあったな」と思えるのは、大学時代でした。仕送りとアルバイトで十分な金銭的ゆとりがあり、また、ありあまるほどの時間的ゆとり、そして両親の庇護があったからこその精神的ゆとり。あのころに、友人関係を確立させ、夢を天下に馳せさせ、自分は今後どのような人生を目指すべきかをじっくりと考えることができました。ゆとりがあったからこそ考えることができたのでしょう。
親はわが子を大学に行かせるなら、このゆとりを与えることに全身全霊を傾けるべきかと思います。中途半端に苦しめながら大学に行かせる時代ではないでしょう。もっとも、その大学時代を適切に過ごす思考の原点は高校時代までに教授しなければなりません。
ところで、若い世代で「ゆとり」を声高に叫ぶのは、女性に多いようです。このことは、「リラクゼーション」を謳った産業が圧倒的に女性を対象にしていることからも、理解されます。
男性と女性では、生涯設計の基本概念が異なっています。しかし、男女雇用機会均等法の成立など、いつのまにか、男女の人生観は均一化されねばならない、と宣言された社会になっています。
ところで、ゆとりというものは、生まれながらにして、存在しているものでしょうか。身近にも、「やっぱり、ゆとりが大切だよね」などという会話を耳にすることがよくあります。
何かとストレスが多い社会ですから、ストレス発散のために、リフレッシュを心がけることは、推薦できることだと思っています。しかし、最近、私は「ゆとり」「ゆとり」と叫ぶ若い世代の人達を一喝したい気分にとらわれています。
「ゆとり、なんてものは、もともと生まれながらにして自然に備わっているものではない。生涯にわたる必死の努力により、最終的に手に入れるものだ!ゆとりが欲しければ、必死の努力を繰り返し、自らの力で獲得できるようにせい!」と。