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月刊メディカルサロン「診断」

メディカルサロン誕生秘話月刊メディカルサロン2001年9月号

「外来を担当しなさい」

平成4年のある日、私は教授室に呼び出され、指令を受けました。教授の命令には絶対に従わなければいけません。当時私は28歳。内科大学院生でした。慶應病院史上、最年少の外来担当医になるのかもしれません。

当時、医療に関して多くの不満が沸き起こっていました。マスコミは連日のように、「3時間待ちの3分診療」「説明不足」「検査づけ」「薬づけ」「インフォームドコンセント」をテーマとし、「医師への不信高まる」で締めくくる文章を発表していました。そんな最中での教授からの外来担当命令です。

「教授にはなにかの思惑があるのかもしれない。だとすると多少でも改革的なことをしなければ・・・」

そのような思いを抱きながら、意気揚揚と消化器内科14番の外来へ向かうことになりました。ところが、当日、診察室に入ってびっくり仰天です。

朝9時から始まる外来診察は、午後1時には終わらなければいけません。そのあとは、同じ場所で他の医師の外来が始まるからです。4時間の間に予約された患者の数がなんと120人もいたのです。3分診療と非難されていますが、それどころではありません。単純に計算しても1時間で30人。つまり1人2分で終えなければ、時間内に終了させることができないのです。診療現場を改革しようという意欲もどこへやら…。次々とこなさなければいけない患者の嵐に、意欲のすべては吹き飛ばされてしまいました。
悪戦苦闘の外来を数回繰り返すうちに、はっきりとわかってきました。「現在の医療現場の延長上に理想の医療スタイルを築くことは不可能だ」と。現医療を非難することや、理想の医療づくりを語ることは易しいのですが、改善を実現するのはきわめて難しいのです。保険医療制度が、医師がいかに怠慢でいい加減であっても、十分な収入を保証する一種の利権構造になっていることが改善へのアプローチをさらに困難にしています。

一方では、患者さんの自分の病気に対する知識が驚くほど乏しいことにも気づき始めました。膵臓病で長年通院していた人が、どこに膵臓があるか知りません。膵臓と周囲の臓器との位置関係も知りません。考えてみると人の身体についてのことを系統的に学ぶ機会がなかったのだからあたりまえです。話題になったものは断片的に知っているようです。たとえば、「副腎皮質ホルモン」がテレビで取り上げられたことがありますので、副腎皮質ホルモンと言われれば、「副作用が怖い」や「アトピー性皮膚炎の治療で医者が処方する」などと一般の人の口から出てきます。しかし、「副腎」という臓器がどこにあるのか知りません。
病気や身体についての知識が乏しいために、担当の医師と十分なコミュニケーションをとることができず、そのため不要な不安を感じている外来患者がたくさんいます。不要な不安を取り除けば、もとの病気が治ってしまうという患者さんもたくさんいるのです。しかし、その不要な不安を取り除いてあげるためにじっくりお話する時間を外来診察中に作ることができません。

そこで、私は一念発起しました。慶應病院の近くのマンションに一室を借りて、「四谷メディカルサロン」と名づけ、身体に関する家庭教師をはじめたのです。身体のことに関する知識不足や医師とのコミュニケーション不足のためになかなか治療がすすまないという人に1人ずつ来てもらい、机を囲んで家庭教師になったつもりでひとつひとつ身体や病気のことを教える、ということを開始したのです。もちろん無償で行いました。メディカルはボランティアだという教育を受けていたことと、医療はほぼ無償で提供してくれるものとほとんどの人が思っている、という2点から金銭をいただくことは思いもよりませんでした。
家庭教師のスタイルで教えていくということを誠心誠意行いました。教え方もいろいろと工夫を重ねるようになりました。そんなとき、ある人が私を見つめながら、力強く語ってくれたのです。

「先生がやっていることは素晴らしいことだ。先生の感性ではわからないかもしれないが、そのようなことは無料でやってはいけない。正々堂々と料金を定めなさい。そうしてくれたら多くの人を紹介することができる。先生のやっていることを求めている人がたくさんいるのだよ」

悩んだあげく、会員制ということにして、会費をいただくことにしました。それが自由診療として誕生したメディカルサロンの開設にいたる秘密のお話です。もとは医学の家庭教師だったのです。

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