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月刊メディカルサロン「診断」

「病院に殺される」ことへの対策月刊メディカルサロン2002年2月号

病院側の機能と都合

病院組織のあり方や病院従事者の現状などを厳しく批判した書籍が、書店で見られます。
「母は病院に殺された」「病院に殺されないために」などの題名の書籍がそれにあたります。今回は病院の宿命や本来の機能、それらから当然のように考えることになる対策、身の守り方についてお話しましょう。

高度な機能を備えた先進型病院には、1人の患者に対して3つの機能を発揮しなければいけません。1つは、「病気を治療し苦痛を取り除く」という機能。1つは、「新人を含め、医者のトレーニングを行う」という機能。もう1つが「新しい治療を開発する」という機能です。
たまたま入院した病院が、純粋に「患者の苦痛を取り除くために、従来の医学データを駆使して最良の治療を行う」ことに徹してくれれば何の問題も起こりません。前述のような書籍が生まれることもありません。しかし、新人の医師にはゼロからのトレーニングをするのも病院の役割ですし、ベテラン医師が新しい治療技術を身につける舞台も病院です。
それだけではありません。医学の世界にも、出世競争が存在します。より新しい治療を開発して学会で発表し、優れた論文をまとめた医者が出世していくのです。

いい治療を行い患者に喜ばれる医者が出世するわけではありません。医学の世界で出世できるのは、患者に対してはむしろ冷徹で「患者は新しい治療を開発する実験材料に過ぎない」と割り切れる医師が多いのは事実です。その最高出世が医学部教授の座です。そんな世界に耐え切れないで医学部内での出世競争を放棄して、関連病院の平医師として従事しつづけている医師も私の同期にはたくさんいます。
「○○大学の教授が知り合いだから大丈夫だ」と高言する人がいますが、私の経験から推察するかぎり、決して安心できるものではありません。私が見てきた医療現場は、その安心感を持っている人ほど実験材料にしやすく、教授からむしろ、そら恐ろしい治療方法の指示があったという絶対的な事実が存在します。「教授の知り合いだから公の場での訴状問題にならない。だから、思い切ったことができる」という不文律が存在しているのです。大学の医学部教授と出会ったとき、まったくの別世界の人間と出会ったような、なんとも表現しにくい気分にとらわれることがありますが、その直感を軽んじてはいけません。

医師は、その患者を実験材料として利用したという事実を包み隠す言論術に長けています。その言論術の優れた医師は教授に気に入られます。長けていなくても、医師と患者では医学の専門知識の格差が極端なので、患者やその家族を騙しきることは赤子の手をひねるようなものです。

ところが、そのような病院が悪いのかとそういうわけでもありません。教授を中心とする研究グループは、ある1つの専門分野(研究テーマの分野)について、莫大なデータを持っており、定めた治療を遂行する技術にも極めて優れていることもまた事実です。

難しい、病院との付き合い方

だから、どうしたら、ややこしい医療界内部の事情を乗り越えて、身体の老化に伴い絶対に必要になる病院組織と上手に付き合えるのか、というのは考えれば考えるほど大切で、それでいて難しい問題であることに気づきます。近所の開業医の紹介状があれば安心かというとそういうわけではありません。大学教授と開業医の間には、学閥や人的流通を土台として形成された厳然とした上下関係が存在しています。

メディカルサロンのプライベートドクターシステムはそのような問題を一気に解決しています。メディカルサロンは、高度先進機能型の病院のスタッフとは、日ごろは上手ににこやかに付き合いながら、いざというときには「私が紹介した患者を実験材料にしようものなら、恐ろしい天罰を加えて差し上げますよ。したがって、患者の苦痛を取り除くことだけを考えた最良の治療を提供しなさい」と暗黙の睨みを効かせています。私がメディアに対して強い情報発信力を持っていることが暗黙のにらみとして強力です。

メディカルサロンの会員なら、「病院に殺された」などということは決して存在しないように、私は日ごろから水面下の行動で取り計らっています。「未然に防ぐ」という行為は気がつかないところで行われているものなのです。

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