月刊メディカルサロン「診断」
陳宮になるべからず、王必になるべからず月刊メディカルサロン2002年9月号
中国の後漢末期から魏・呉・蜀からなる三国の時代が「三国志」に描かれています。正史として記載されたものもあれば、物語として記載されたものもあります。大勢の人間が登場し、その生き様を基に壮大なドラマを描いています。どの一説をみても、教訓に富んでおり、そのドラマを学ぶことは現代を生き抜く上でも非常に役立つことだらけです。
多くの評論家、小説家が、登場人物を評しています。人物評に載ることが少ないのに、私が重視している人物が2人います。それが、陳宮と王必です。今回はその2人について語りましょう。
自分の力を正しく認識することの大切さ
後になって魏を建国した曹操がまだ若くて後漢帝国の一将軍であった頃、ひょんなことから追われる身となり洛陽を脱出しました。故郷へ逃げ帰ろうとする際に、その曹操を関所で捕らえたのが陳宮でした。陳宮はお尋ね者の曹操をせっかく捕らえたのに、その曹操と意気投合し、捕らえた曹操を開放し、一緒に曹操の故郷へと旅立ちます。
曹操は、陳宮に大きな恩を感じたことでしょう。故郷で兵を挙げた曹操は5000人ほどの部下を集め、成功の道を歩みはじめます。その成功の途上を陳宮は補佐しました。陳宮は曹操にいろいろな提案を行いました。その提案も曹操の成功に有用だったことでしょう。陳宮に恩を感じている曹操は、「私の成功は君のおかげだよ」と何度も語ったことでしょう。陳宮を可愛がって、陳宮の提案が素晴らしいものであったようにみせかける努力もしたことでしょう。
しかし、その過程で陳宮は自分の力を過信するようになりました。
「曹操が順調なのは俺のおかげだ。俺の主人は曹操でなくても誰であってもよい。私が補佐すれば、その男は成功できるのだ」と。
曹操が他の戦場に赴いて留守のときに、陳宮は謀反を起こしました。流浪の身になっている呂布という人間と組んで、曹操に反旗を挙げたのです。陳宮の心底は「俺が呂布を補佐したら、呂布は曹操を滅ぼし天下を取ることができる」であったことでしょう。結果は・・・惨敗でした。
呂布とともに陳宮は曹操に討ち滅ぼされました。成功の道を歩めたのは曹操が偉大な才能を持っていたからです。陳宮は、自分を引き立ててくれようとした曹操の心がわからず、自己の力を過信し、自滅の道を歩んだのです。主君を補佐する立場の者が、また補佐される主君が、どうあるべきかについて教訓的です。
組織の成長と、自己の成長への努力
曹操が故郷で旗揚げしたときに駆けつけた部下に王必(おうひつ)という者がいました。曹操とともに多くの戦場をかけまわり、かなりの戦歴をあげていました。創業期の頃から曹操のもとで働き出した者は、みな一生懸命勉強する部下達でした。だから、曹操の成功とともに、初期の5000人で生き残った者はよい地位を与えられていきました。ところが、王必は酒が好きで、勉強量がやや足りなかったのです。曹操軍の成長についていけません。王必は、地位的には泣かず飛ばずでした。
曹操は王必をかわいそうに思いました。旗揚げ時代から自分とともに苦労してきたのだから、引き立ててやりたいと思いました。そこで、ある機会に近衛軍(帝の親衛隊)の総司令官に抜擢したのです。王必の能力以上の地位でした。曹操の王必への思い入れがその抜擢人事を生んだのです。ところが、その後、首都洛陽に、ある謀反事件が勃発しました。王必は近衛軍総司令官として、その事件に対処しなければいけなかったのですが、能力足りず、謀反軍に討ち取られてしまいました。曹操の温情がかえって、王必に死を与えてしまったのです。
成長する組織に属したかぎりは、その組織の成長以上に自分が成長しなければ、かえって不幸を招いてしまうという教訓です。歴史上の人間の生き様を学ぶのは、本当にいい勉強になるものです。